講座で使おうと思って「銀河鉄道の夜」を読み直し、ああでもない、こうでもない、と自分なりの考えを整理している。いつぶりの再読か、さっぱりわからないけれど、二十年は読んでいなかっただろう。ほとんど初読と変わらない心持ちで読み、こんな話だったっけな、と戸惑いをおぼえた。
宮沢賢治の作品、有名どころはだいたい読んでいるはずだけれど、記憶にしっかり住み着いた作品というのは「永訣の朝」だけだ。ほかはざっくりとしたストーリーをおぼえているくらいで、これは「おぼえている」というより「知っている」だけというのが近いだろう。
僕が「永訣の朝」に惹かれた経緯を辿ると、別の作家の別の作品まで引き返さなくてはいけない。夢枕獏さんの『上弦の月を喰べる獅子』というSFのようなファンタジーのような長編に、宮沢賢治の作品がいくつも引用されていて、「永訣の朝」も含まれていた。『上弦の月』はいまでも文庫版を入手できると思うのだけれど、僕が読んだのは高校生のとき、単行本でだった。
確かあれは高校3年生のときだった。国語の教科書の末尾近くに「永訣の朝」が掲載されていて、授業でとりあげられるのを心待ちにしていたのに、授業の時間が足りないという理由で、教科書の残り3割ほどは採り上げないという決定がなされた。現代文の担当は山田先生という、顔も体つきも、長めの長方形で組み合わせたようなシルエットを持ち、性格はとてもおっとりとしている人物だった。なにか質問すると「あー、なかやまー、それはー、いい質問、ですね」と一言一言を吟味する喋り方で返してくれた。
その山田先生が教科書を網羅できないことについて説明したあと「しかしー、もう、何時間かはー、あるのでー、なにかー、リクエストがーあればー」と僕らのやりたいページを指定するよう促してくれた。まっさきに僕は挙手して「永訣の朝」を望んだ。ほかの生徒たちからリクエストは出なくて、僕の希望がするりと通った。
つぎの授業に山田先生は「永訣の朝」の朗読テープを見つけてきてくれた。岩手出身の方が読んだ音声で、僕が想像していたよりもずっと、ゆっくりと読むのだった。山田先生の話し方の倍も遅い、ちいさな雪片が時間をかけてふわ、ふわ、と空から落ちてくるような声だった。
「銀河鉄道の夜」について調べてみると、カムパネルラは賢治の妹をモデルにしたという読解が割と一般的になされている。まあ、わかりやすい補助線ではある。他の説もあるし、今回は創作のモデルについて知りたいわけじゃないので、余談めいた話にしかならないのだけれど、でも、「ほんとうのさいわい」関連の言葉は、なるほど、「永訣の朝」に書かれた精神に通ずるところがある。