子供に頼まれて本を買ってきたのだけれど、ものの一時間足らずで読み終わっていた。はやいな。ジュニア文庫的な作品だから読みやすいのもあるけれど、それにしてもきみ、はやいな。
などとけちくさいことを言えない。僕もそういう時期があった。小学校も高学年のころは、図書室では本をしっかり読むことよりも貸出カードを埋めることのほうに注力していたし、自宅の本棚についても数を増やすことに喜びを感じていた。自分の本が100冊に達したときは、ほんとうに嬉しかった。
中学生になってからは、数へのよろこびはどこかへ去ってしまった。若気の至り、というか、幼気の至り、だったのだろう。かといって読む数が減ったわけじゃない。中学時代に読んでいた作品の多くがシリーズものだったので、ひとつに手を出せば、次の巻、次の巻、と増えていくし、おなじ作家の別作品にも手を出して、別のシリーズなのに関連性があるとか言われるともう、それも読まなきゃ、あれも読まなきゃ、となった。栗本薫先生のことですよ。
大学時代に熊本福岡間を特急で通学していた時期があって、その時間のほとんどを読書にあてていたことは前にも書いた気がする。『グイン・サーガ』の新刊が出ていると、だいたい博多駅の書店で購入して、特急を待つホームでさっそく読み始めて、熊本に到着する前に読み終わっていた。はやいな。当時は新幹線もなく、福岡と熊本を特急で移動した場合、待ち時間も含めて90分くらいあった。『グイン・サーガ』は文庫でだいたい一冊240ページ程度だった。
一方でぜんぜん読み進められない作品もあって、ちょっとずつちょっとずつしか飲み込めないから、通学時間もほかの作品と併読するなどしていた。いまでも、読み出した作品を途中で放り出すのが苦手で、誰に命じられたわけでもないのに、なんとか最後まで読もうと試みる。挫折する作品もあって、それはそれで仕方ない。でも、一度挫折した作品でも、時期をあらためて読むとするっと入り込めたりする。だめだめ、その発想、そんなんだから本が増殖していく一方なんだよ。とわかっていても、やめられない。
我が子の本棚も見る間に埋まっていく。わかる、わかるよ。でももうちょっとだけスローになってもいいのではないだろうか。自分のことは棚に上げて言う。それが親というものです。