人を嫌うのが得意ではない、という話を前にも書いた気がする。
だけど「僕は人を嫌うのが得意じゃないんですよ」などと口にすれば「それはきみ、他人を下に見てるからだよ、嫌う価値もないっていうふうに」と注意されたりもする。そんなつもりはないけれど、悪意のなさを証明はできなくて、詰む。
嫌うのは苦手だけれど、嫉妬心を抱くのは大得意で、だいたい誰に対しても嫉妬する。妬み嫉みは品切れになったことがない。それが特別なことなのかどうかわからない。みんなどのくらい、他人に嫉妬するものなのだろう。
以前、ある人が「自分はまったく嫉妬しない、という人に会って驚いた」と話しているのを聞いて、僕も驚いた。まったく嫉妬しない、と断言できる生き方ってどんなんなんだろう。よほど人間ができているのだろう。(とか書くとまた「人を馬鹿にしておるな」と言われるかもしれない)
いや、なにも嫉妬心を吐き散らして歩いているわけじゃない。ほとんどの嫉妬は胸の奥でぱっ、ぱっ、と明滅するだけで、わざわざ喉まで這い上がってきたりはしない。されても困るので、それくらいで留まっておいてほしい。
でも、内心では、やはり落ち着かない。SNSのせいだよね、というのは簡単で、だったらSNS以前、ネット以前の人たちはこんなぐじゅぐじゅした沼地を胸の奥底に抱えずに生きてたの? と思えてきて、それならそれは羨ましいなと、またぞろ嫉妬心がべつの姿をとって現れる。
とかいって、自分もネット以前を長く経験したから、わかっている。昔から嫉妬心ははびこっていた。すくなくとも僕はそうだった。家族にも、友人にも、有名人にも、だれにつづく道にも「嫉妬」というバス停があって、かならず停車した。嫉妬を踏まえなければ誰それのドアをノックすることもかなわなかった。やなやつ、やなやつ、やなやつ!
中学3年のときに仲良くしていたSという男子を、よく思い出す。彼はほんとうに優しい奴だった。こんなに打算を持たずに他人にやさしくできる人間が実在するんだ、と、Sと接するなかで幾度となくぶちのめされた。
Sは、顔立ちはさしてよくはなかった。目は細く、顔は丸みをおびて、口を閉じて黙っていると暗い秘密を抱えた人物にも見えたものだ。しかし、しかしである、彼はたいてい笑顔で、なにかあれば自分が前に出て、ひとがいやがることをなんも気にしないふうに引き受けて、いつも楽しいことばかりを話題に持ち出してきた。顔はよくないし、背だって普通サイズ、これといって他人の目を引くところはなかったのだけれど、性格の良さが勝って、もてた。実にもてた。Sと仲良くしていたからか、僕もふたりの女子から「S君のことが好きなんだけど、告白してもだいじょうぶかな?」と相談をもちかけられた。嫉妬したか? した。そりゃ、するさ。でもSはいい奴だし、もてる理由もわかったから、嫉妬する自分が阿呆だということもわかっていた。
Sのお母さんは、とある教室を運営していて、人に指導する立場であった。あとになって思えば、Sの教育にもそうした面があったのかもしれない。人を指導するということは、このように振る舞うことなのだ、といった具合に、母親の薫陶を受けてSも素直でやさしくて、暗い夜にも松明をたやさず人々を訪ねまわることをあたりまえと思って生きてきたのかも。
嫉妬心は人間の欲求には数えられていないけれど、もしも四大欲求としてもうひとつなにか人の欲望に殿堂入りさせよ、といわれたら(大喜利のお題みたいだ)、僕は「嫉妬」を推薦するだろう。こんなにこまごました嫉妬とどうつきあっていけばいいのか、どうマネージメントしていけば心安らかに生活できるのか。みんな苦労していてほしい。「嫉妬することないですね」と涼しい顔で答える人よ、嘘つきであれ(やなやつ、やなやつ、やなやつ!)。
と書いたあとで「四大欲求」を調べたら、そういう考え方がすでにあった。「嫉妬」ではないけれど「承認欲求」がスタメン入りを果たしていて、それって嫉妬とニアリーイコールではないのと思ったけど、「承認欲求」という枠組みが好みじゃないので却下却下。