ファギュー

metayuki
·

修学旅行でカメラマンが撮影した写真を購入すべく、ネットでちまちまと我が子が映っているものを探していた。旅館で部屋ごとに撮られた集合写真的なものもあり、ひとりの男子がずっと中指を立ててカメラを睨みつけていて、嬉しいような、小っ恥ずかしいような、昨今目にする言葉でいうなら共感性羞恥のような気分になった。

中指を立てる、その行為の意味を僕が知ったのは小学生のころで、近所に住む友人が映画『トップガン』に心酔しており、そこから件のポーズを仕入れて、僕らにも教え広めてくれた。ちなみにその友人はドッグタグを首から提げ、MA-1を着るようになった。僕とは趣味嗜好の違う人物で、近所でなければそれほど遊んだかもわからないのだけれど、彼からはそんな具合にあれこれと未知の世界を見せてもらった。FUCK YOUという言葉が日本でまだ知られていなかったし、カタカナで「ファックユー」と記されることもなかったので、友人が耳コピした「ファギュー」という発音で僕らにはインプットされた。中指を立てて「ファギュー」とやるのである。誰かを挑発する際に使うわけだけれども、熊本の小学生に向かってそのポーズをとってみたところで、相手はポカンとするしかない。そのうち誰もやらなくなった。

それから幾星霜。中指も例の言葉も日本で市民権を得て、中学生がカメラを見据えて披露するのも不思議でなくなった。それがかっこいいと思っているのか、それともみんなでにこやかに写真を撮るという状況が受け入れがたいのか、あるいは単におもしろがっているのか。気になった。

リチャード・パワーズのデビュー作である『舞踏会へ向かう三人の農夫』は1枚の写真から広がる壮大な物語で、とてもとてもおもしろい。写真が物語の鍵となる作品は数多く、ミステリでは頻繁に使われる。いまはプリントされた写真よりもスマホに保存された画像とか、ネットにアップされたものとか、デジタルデバイスで見る写真が物語を動かすようになっていて、そういうことを考えていると映画『ブレードランナー』で写真を拡大するシーンを思い出す。あれ、すごい技術だよな。

なにが言いたいのかというと、つまり、中指立てた少年は、あるいは彼と同部屋だった少年たちは、いつかの未来でその写真(画像)を見返したときになにを思うのか、そこが気になる。

「ああ、こいつこの時期いっつもこのポーズだったよな」と思い出したりするのか、「こんときカメラマンがクソでさ、ちょっと待ってって頼んだのに無理やり入ってきやがって」みたいなエピソードがあるのか、「こいつ旅行中に告白して振られてさあ」とかも、なくはない。(すべて勝手な妄想です)

実家に戻って古いアルバムをひらきたくなるのは、こんなときだ。実物を見なくても、記憶として思い出せる写真がいくつかある。その場面よりも、写真を見ているときの記憶として鮮やかに蘇る。あれは、なんなのだろう。やっぱりなにか物語を感じる写真ということなのだろうか。そのあたりが気になって、実物の写真(印刷したやつ!)を確かめたくなるのだ。

そして映画『トップガン』を僕も観ているのに、中指を立てるシーンがあったか思い出せない。ファギュー。ほんとにそう言ってるのかもわからない。あの友人がいまどこでなにをしているかも、まるで知らない。

@metayuki
書きたいこと好きに書いてるだけの生き物。ときどき創作物が混入します。ハッシュタグでご確認ください。