嫌う勇気

metayuki
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客観視、ということについて考えていて、自分を客観的に見るということをやってみても、よくわからなくてお手上げになった。昔の自分のことを考えてみても同様で、たとえば高校時代の自分を思い返してみると、なにがあったときにどんな気持ちになったか、なんてことは思いつくものの、その場面を外から見たらどう見えたかと想像してみても、やっぱりわからない。

30代のころ、中学時代の友人に会うことがあり、当時の自分はどんな人間だったかと質問してみたい衝動に駆られたものの、口に出せなかった。尊大な質問に思えて、恥ずかしさが上回ったからだ。実際に質問していたら、黒歴史の1ページになっただろう(ところでこういうときに「ページ」という言い回しを用いるのも、そろそろ伝わらなくなったりするだろうか)。

自分がどういう人間なのか、自分で思うところはあるし、外からの評価はだいたいこのへんだろうと推測できる面もある。でも実際のところはわからない。誰から見た俺なのか、ということでも左右されるだろうし。

先日、仕事関係で、これは俺が嫌われているのだな、と感じることがあった。個人的な事情というだけでなく、ほかに何人かが関係しての結果なのだけれど、僕からしてみればとばっちりみたいなことにも思えるけど、でも、あちらにしてみれば「おまえだってそっちグループだろ」という話なのかもしれない。そう捉えられる理由も多少は察せられるし、べつにいいんだけど、ということでもあるのだけれど、ああああああああ。歯切れの悪い書き方しかできないなら書かなければいいのに。

「嫌われる勇気」という言葉が流行ったことがあった。いまはどうだろう。人は人、よそはよそ、というようなことは幼いころ親によく言い含められた。自分のことを好きか嫌いかでいえば好きとは言い難いのだけれど、でも、自分を好きでいてくれる人に申し訳ない気持ちが芽生えるので自分でも自分を好きと思いたい気持ちがあるのも本当で、それは打算的な考え方じゃないかとも思うからまた自分のこと好きになれんと思ったりする。えー、でも、積もり積もったあれこれをひとつずつ取り除いていって、最後に残るのは「好き」じゃないかな。それは、そう思う。あんまり入り込めない小説を読んでいても、ここ好きだな、って感じるポイントはだいたい見つかる。無理に見つけようとしなくても、そういうところはこっちの気持ちが反応する。そんなポイントが自分という人間のなかにもあるってことで。あるってことで?

あれこれ考えてみると、自分に足りないのは自分を嫌う勇気のほうかもしれない。嫌いな部分をきちんと嫌えるなら、そこから改善してもいけるだろう。嫌いじゃないよとか思ってるうちは、たぶん、駄目だ。なんだ、そういうことか。でもそれ難題。

@metayuki
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