昨夜もうまく眠れなくて、今日は一日を通して身体機能も頭もパフォーマンスがガタ落ちだった。と書いてみて「パフォーマンスがガタ落ち」というのはいかにもつまらない表現だよなと反省しているところ。リアルタイム反省文。
家庭訪問の予定があった時間帯に強い眠気に襲われて、駄目だ駄目だとなんとか立ち上がった。コロナ禍にも家庭訪問は実施され、玄関の外でマスクをつけ、距離をおいて、短時間で必要事項だけを話す、というスタイルだった。それ以前は家の中まで先生を招き入れる従来のスタイルだった。そしていま、日常がほぼ戻ったいまでも、家庭訪問は玄関の外で実施されている。こちらも、先生も、マスクは着用せずに言葉を交わした。会話は短く、文字通りの立ち話で終わる。おかげで眠くならずに済んだ。室内で椅子に座っての面談だったら、ふらっと眠気に負けたかもしれない。さすがにそれはないと思いたい。
家庭訪問の思い出は、これといって出てこない。うちは共働きで、母も外に働きに出ていたので、家庭訪問の際には休みをとってくれていたのだろう。お茶をお菓子を用意して先生を招き入れていた。ああ、ということはあの先生も、あの先生も、うちに来たんだなあ、と、あらためて考える。
小学校の先生は誰も専門の科目を持っていたわけではないのに、3年のときの担任だった荒木先生は、どうしてだか「美術の先生」というイメージがついてまわる。そもそも教科として「美術」はなくて「図画工作」だった。図工が得意な先生だったのかもしれない。
3年生のとき、おなじクラスに峠くんという男子がいて、めっぽう絵がうまかった。とくにキン肉マン関連の絵を描かせると群を抜いていて、男子生徒の多くが峠くんに超人の絵を描いて描いてと頼んでいた。峠くんも快く引き受けるだけでなく、ポイントシステムまで導入した。彼に絵を描いてもらうたび、個別に渡されたカードにヒツジのマークをスタンプがわりに描いてくれた。5つたまったら、大きな絵を描いてもらえる、という仕組みだった。
当時、僕が小学3年生だから1984年とかなのだけれど、ポイントシステムとかスタンプカードなんてものはほとんど存在していなかったのに、どうして彼はそんな仕組みを思いついたのか。そして、どう考えても峠くんの稼働を増やしていくだけの地獄のシステムに思えるのに、彼は喜々として、来る日も来る日も絵を描き続けていた。
それがいちばん強力なコミュニケーションの手段だったのだろう。いまならそれくらいには考えられる。
何度か、峠くんの暮らすアパートに遊びに行ったことがある。二階建ての古いアパートで、たしかそこで、黒くて厚手のゴム手袋をはめさせてもらった記憶がある。なんのためにはめたのかは、おぼえていない。ただおもしろかったのかもしれない。つやっとしたゴム手袋のテカリを、断片的に蘇らせることができる。これがミステリ小説なら、僕はなにかの犯罪に加担して、その記憶を意識の奥底に封じ込めており、ゴム手袋の質感だけが意識の表面近くに引っかかっていて、なにかのきっかけで自分たちがやった悪事を思い出す、といった展開にもなるのかもしれない。
荒木先生が美術の先生だという勘違いと、峠くんがせっせと絵を量産していたことと、大人の気配がなかったアパートの部屋と、黒いゴム手袋。そうやって並べると、当時の僕には見えなかった暗い物語が立ち上がってきそうで楽しい。
峠くんは手書きの羊のスタンプを「ウールマーク」と呼んでいた。面長の彼はちょっと羊に似たところがあった。