早川さんちはご近所さんで、旦那さんが会社の窓から落ちて亡くなった。年末の大掃除のときの事故だった。
早川さんには当時小学二年生だった男の子がいた。私とは四つ違いなので遊んだことはなかったけれど、子ども会で同じ班になったことはあった。子供の名前はおぼえていない。奥さんの名前も知らない。
私の実家は平成の初めに造られた住宅街にあって、バブルがはじけたあとだったからしばらくは空き地になったままの区画も多かった。私たち子供は経済のことなど知らず、空き地を遊び場としか見ていなかった。何人かのおさななじみが家族とともに突然いなくなることがあって、それでも経済が問題だとは思わなかった。うちの両親は県庁職員で、お金で苦労したことはなかった。早川さんの旦那さんは親戚が経営する建設会社に勤務していたそうだ。公共事業を受注していたので、収入もかなりあったのだろう。我が家は二馬力で、早川さんは旦那さんひとりの稼ぎで生活を賄っていた。
旦那さんが亡くなったあとしばらく、奥さんが働きに出ることはなかった。
勤務先の社長は伯父にあたる人物で、不幸な事故で亡くなったことに責任を感じ、多額の慰謝料を早川さんに支払い、生活の面倒を見ていたそうだ。
「でもあれは生活なんて呼べるものじゃなかったね、早川さん、旦那さんが亡くなったあともずっとお弁当をつくりつづけてたんだから」
生前、早川さんは毎日奥さんのつくったお弁当を会社に持っていった。もう、つくる必要もないのに、奥さんは毎朝、以前とおなじ時間に目が覚めてしまってやることもないので、お弁当をつくるのだそうだ。つくっているあいだは、不要だということを忘れてしまっている。完成して、お弁当用の巾着に入れて口をしばったあとで、もう旦那がいないことを思い出す。そして一日を落ち込んで過ごした。
そんなことを私は先日の帰省で聞いた。母とふたりでお茶を飲みながら、早川さんの息子さんが結婚して、最近、実家に戻ってきているらしい、という話からの流れだった。
「どうしたの、そのお弁当? 自分で食べたの?」
「捨ててたらしいよ。もったいないけど。旦那さんが亡くなったのも、お弁当食べる前だったんだって。お通夜の前に自宅に戻ってきたら旦那さんが使ってた巾着があって、冬だからひどく腐ってたってわけでもないらしいけど、生ゴミにして捨てたらしい。死んだ死んだって思いながら、ビニールに包んで捨てたって、奥さん言ってた」
それを何年も繰り返していたという。
奥さんは旦那さんの伯父の計らいでグループ会社に雇われた。相変わらずお弁当をつくっては捨てるだけで、自分のぶんをつくることはしなかった。出勤して、近くの飲食店でお昼を済ませた。
「意味わかんない。なんで捨てるためにつくるわけ?」
「本人も不思議がってたのが、おかしくて」と母は笑った。「近所のみんなの前で話すから、最初のうちは同情してたけど、でもねえ、途中からは、またはじまったって感じになって、悪い人じゃないでしょ、こっちに害があるわけでもないし。そしたらそのうち、何人かね、早川さんちに集まってお茶なんかするようになったのよ」
母は参加したことがないそうだけれど、早川さんのお宅にあがった人たちは、どうやら、そこでしか話せない秘密をしゃべっていたらしい。
「お弁当をつくって捨てるのはおかしな行動だけど、だれだってそういう行動のひとつくらい持ってるでしょって話なのよ」
「なにそれ」
「あんたないの?」
「母さんは?」
「スリッパをしょっちゅう買い替えるでしょ」
言われてみれば、そうだ。年に三回か四回は新調していた。履き心地が劣化したせいだと思っていた。私がそういうと、母自身も「そう思ってたんだけどね」と、まだ信じられないふうに続けた。
「考えてみたらそれかなって」
早川さんが勤務先で知り合った男性と再婚したのが二年前のことだ。息子さんはとうに独立していたので、再婚相手が早川さんの家に越してきた。早川さんは退職し、つくったお弁当を毎朝、再婚相手に持たせた。
「え、なんか怖くない、その話?」
「どうして」
「だって前の旦那さんのことがあってつくりつづけてたんでしょ、お弁当」
「捨てなくなったんだから、いいことじゃないの」
「知ってたのかな、再婚相手の人」
「は? なに、そのこと言わずにお弁当持たせてたって思った?」
母の指摘どおり、そう思っていた。
息子さん家族がこちらに戻ってくることになったので、早川さんは再婚相手とともに新しくマンションを買ったそうだ。ふたりで暮らすのにちょうどいいサイズの部屋らしい。
「ま、よかったじゃん、早川さんもようやく立ち直れたってことでしょ」
私が結論めいたことを口にすると、母は肩をすくめてみせてから、こう言った。
「いまの旦那さんが捨ててるのかもしれないじゃない」
「それのが怖いね」
「みんなやってるよ、ほかから見れば怖いこと。あんたも再婚するなら気をつけないと」
「私はだいじょうぶだよ」
「どうだか」
「そんなに信用ないかな」
「他人のこと言ってるんだよ、あんたのことじゃない」
そのあと、早川さんちの前を通っていると、息子さん家族が車で外出から帰ってきたところだった。車から降りてきた奥さんは、早川さんの奥さんの若い頃にうりふたつだった。