夢に先生が出てきて、夢の中の僕は先生を「先生」として認識しており、しかもよく知っている相手として理解していて、ちょっとした会話も交わしていた。目を覚まして、懐かしさを感じながら夢について考えてみたところ、その先生がいったい誰なのかわからなくなった。夢のなかでは確かに知っている人物として登場していたし、目覚めたあとの懐かしさから、あれは実在した先生なのだという確信があって、だけど一方で、あの先生はいったい誰だったんだ、という疑念が生じ、時間が過ぎるにしたがって、あの先生、知らない人だ、と思えてきた。
脳神経科学の専門家による実験から、人が「おぼえている夢」というのは、目覚める直前に見た夢に限られる、といった結果が発表されていた。けっこう前の話なので、いまはまた別の説があるのかもしれない。しかもその「直前」というのが30秒程度らしい。多くの人が、その結論に違和感をおぼえるだろう。あんなに長ったらしい夢を見て、記憶しているのだから、目覚める直前30秒の夢しか記憶していないなんて嘘だろ、と。僕もそう思う。思うけれど、でも、夢の中で確信していたことが、目覚めた途端にぼやけてしまうことも多々あるわけで、今朝の夢でいえば、僕は「お世話になった先生」の象徴としての人物をつくりあげたに過ぎず、その人物と言葉のやりとりもした、と思い込んでいるだけで、夢の中では実際の交流なんてなかったのかもしれない。「夢の中」で「実際の」交流なんて言い回しのおかしさは、さておいて。
象徴として登場した先生は三十代とおぼしき男性で、スーツを着ていた。短髪で、きれいに撫でつけたような髪型で、うっすらとおぼえている顔立ちを言葉にすると、痩せて、誠実さと熱意にあふれたバナナマン設楽、といったイメージだった。僕の知っている先生方とはぜんぜんマッチしない。
男性教師で担任になったのは、荒木先生、荒牧先生、平松先生、福田先生、鬼塚先生、竹中先生、土田先生、木下先生。うん、どの人の顔つきも今朝の夢の先生とは似ていない。髪型でいえば鬼塚先生のポマードべったり感に近いかもしれない。顔立ちは、えーと、いないな、似てる人。担任以外でいただろうかと考えてみたけれど、思い出せるかぎり、いない。
なんてことをベッドに寝転がったまま考えていた。
きっとほかの夢には、象徴的友人、象徴的同僚、象徴的ご近所さん、なんてのも登場しまくっているのだろう。象徴的家族だっているし、なんなら、象徴的自分も登場しているはずだ。人はみな頭の中に夢の劇団を囲っていて、睡眠中に動き出してはその日一日に使われた思考の残滓を題材に即興の芝居を見せてくれている。そんな設定の作品も昔読んだ気がするけど、夢で見たのかもしれない。