本を読んだり、ゲームを進めたりしていると、日常と非日常のバランスについてついつい考えてしまう。物語においては非日常にウェイトが置かれているケースが多いけれど、ほんとうの日常は圧倒的に日常で、ちっとも整っていなくて、やりなおしもあんまりきかないという、困ったものである。
大学生のころ、おなじクラスに広島出身の男がいて、一浪か二浪していたとかで、ちょっとだけ年上だった。そのことを意識していたのか、それとも生来的な性格がそうだったのか、いろんなことに率先して取り組み、クラスを引っ張っていくようなところがあった。クラスといっても高校時代までのそれのようなものではなく、必修科目を受ける際の枠組み程度の機能しかなかったので、彼の出番もそんなに多かったわけではない。スポーツの授業で前に出たりとか、それくらいだったと記憶している。僕は人付き合いが下手で、自分から話しかけることもしなかったのだけれど、彼はほとんど全員に声をかけては、第一声からもう友達だよねって雰囲気を醸していた。いや、それは違うかもしれない。彼はなにもみんなと友達になろうとはしていなくて、ただ、日常の会話のレベルを周囲の人たちの基準とは別のところに置いていたというだけのことだ。ぱっと近づいてきて、さっと話して、またすぐに次の人のところへ行く。そんな印象だった。
僕はだいたいいつもなにかしらの本を持ち歩いて、休み時間も読書にいそしんでいたわけだけれど、古本屋で買ったうっすい文庫を読み終えて、つぎに図書館で借りてきた分厚い本を読み始めた僕をつかまえて「中山の読書は1か100だな!」と豪快に言い放って去っていかれた。そんなことがあった。
学食でも同じように話しかけられ、隣に座っていっしょに昼飯を食う流れになり、スポーツの時間には同じグループでアドバイスしてくれたりした。僕にとって彼はいつも、非日常の人だった。ぱーん、と飛び込んできて、そこに自分の席があると疑いもせず、なんら悪びれることもなく去っていく。
彼の日常はどんなもんだったかな、と、たまに考える。あちらにしてみれば休み時間に本を読み終えたかと思いきや次の本を持ち出す僕のほうが、非日常な生き物だったのかもしれない。だったらいいなと妄想するけど、でも、そんなことないような気もする。
いまでもたまに本を2冊持ち歩いているときなど、彼の言葉を思い出す。相変わらず1か100かの読書だと笑われるのも、まあ、いいか。