おなじマンションの別の部屋でリフォームの工事が始まり、自宅で仕事をしているあいだ、延々と工事音が聞こえてくる。それはいい。いいのだけど、ときどき、うぃーんいぃぃぃぃぃぃぃいいいいいい？？？？ といった、後半で疑問形みたいな響きになるのは、どうにかしていただきたい。なにか問いかけられているようでもあり、あるいはパントマイムの達人が全身で脱力を演じているときの効果音みたいで、僕の脳内にきれいに整列した規律正しい連中がばたばたと倒れていく場面をイメージしてしまう。
もっとこう、ガリガリガリガリ、ガッガッ、ガリガリガリリリリ、といった硬質な音に終始してくれれば、こちらも「おう、しっかりやってるな」と親方気分で聞き流せるのに。ウィ、ウィ、うぃぃぃぃいいいいい？？？？？いいん。と来られると「どうしたどうした、なにか困ったことでも？」と反応してしまう。
ひとりぐらししてたとき、アパートの壁が薄くて、毎朝隣から聞こえてくるスパイス・ガールズの「ワナビー」で目覚めてた話、したっけ？ ここではしていないはず。
あれは社会人2年目のことじゃった。
わしは川沿いの安アパートでひとりぐらしを始めた。1DKの2階の部屋で、家賃は3万円ほどじゃった。すぐそばを川が流れておってな、そのあたりは年がら年中草ぼうぼうじゃった。そして隣に暮らす女性はしょっちゅう男と喧嘩しておった。
毎朝な、午前七時に大音量で「ワナビー」じゃ。それを止めないんじゃ。おまえ、おるのか、おい、隣人よ、おまえ、ちゃんとおるのか？
おるんじゃよ、それが、おどろいたことに、おるのに止めないんじゃ。大音量でスパイス・ガールズがハッスルしておるのに、ほぼフルコーラス流れて2周目始まるくらいまで、寝ておるのじゃ。すごいな。俺のが毎朝起きるわ。なんならスパイス・ガールズより先に起きて、「グーーーッモーーーニーーン！！今朝の一曲目は、イギリスが生んだパワフルなガールズグループ、泣く子も踊る世界最高の5人組、スパイス・ガールズのことは、みんな知ってるよね。なかでもメガヒットを飛ばしたこのデビュー曲を朝イチで聴けば、激烈なスパイスを口に含んだみたいに、みんなの目も覚めるはずだよ。それじゃ、いってみよう。本日のいっぱつめ、スパイス・ガールズでワーーーナビー」って曲が流れる前にDJ気取りで曲紹介できそうなくらいだったわ。
なにせ安アパートだったので、隣人とごあいさつすることもなく、喧嘩の声から女性であることはわかっていたけれど、どんな人物なのかまでは長いこと知らなかった。
ある日、窓をあけて洗濯物をとりこんでいると、隣の窓に人の姿があって、ちらりと見たところ、まあ、ひどくくたびれた感じの女性だった。たばこを吸う姿が様になっているというか、ドラえもんに四次元ポケットがついているみたいに、しっくりときた。
隣人が男と喧嘩している最中には、なにかが壁に投げつけられる派手な音も聞こえた。いつ警察沙汰になってもおかしくないと思っていた。そこに暮らしたのは一年ほどで、もちろん、隣人がその後どんな人生を歩んでいるのかは知らない。「ワナビー」を耳にする機会もめっぽう少なくなり、あの日々の目覚ましを思い出すこともない。
ひょっとしていまリフォーム中の部屋の住人が「ワナビー」の女性、ということもありえなくはないのか。そうか。工事が終わって、住人が引っ越してきて、そしてある朝、かすかに聴こえる「ワナビー」で運命を知る。そんなことだって、ないとは言いきれない。DJのまねごとの練習しておこう。