スカートを履いた日から

metayuki
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毎度のことながら髪が伸びすぎている。「そろそろ切りにいかないとな」と気づくのが「とっくに切っておくべきだったな!」というタイミングなので、そこから予約して、実際に切りに行くまでのラグが数日とか挟まる。すべて私の不徳のいたすところです。

一度くらいど派手な髪色にしてみたかったという、なんだろう、悔恨のような感情がどこかにある。切実とはとうてい言えないくらいの、ちょっとした憧れくらいのものだから、自分でもあまり真に受けることはないものの、たまに、でも一回くらいは、と考えてしまう。

何度も書いているけれど皮膚が弱いこともあり、髪を染めるとか脱色するとかの行為はぜんぜん勧められないし、やりたがっても止められることのほうが多かった。二十代のころに明るめの茶色にしたことがあったけど、もともと髪が茶色がかっていたので、そんなに変化した実感はなかった。

最近はいろんな髪色の人がいて、そういうの見ても意外に羨ましさはわいてこなくて、いろんな色を楽しんでいてよい、と、親気分みたいになってしまう。

自分と同世代とか、もっと上の人とかで金髪にしてる方なんかを見かけても、親気分にはならない。あたりまえか。羨ましさも特にない。なんだろうな。結局のところ、なんなのだろう。

高校生のときに、わりと真剣にスカートを履きたいと思った。ファッションとしての話であって、それ以上の意図はなかった。前にも書いたかもしれないけれど、女性の服装のほうが好きだった。いまでもそれはそうかもしれない。いまはいろんな要因が絡まって、男性と女性とで服装がしっかり区分されるということも減ってきた。いいな、というか、よい、と思う。それでよいと思う。

志村貴子さんの『放浪息子』という漫画が大好きで、十代のころにあの作品と出会っていたら、自分の服装はどう変わっていただろうか、と幾度となく妄想した。たいして変わらなかったかもしれない。

高校3年生のとき、とあるイベントで仮装をするかもしれない、という話になった。僕は姉からデニム地のロングスカートをかりて学校に持っていき、冗談めかして「これで女装でもいいよ」と言った。冗談にしなければスカートなど履けない時代だった。結局、仮装の話はなくなった。おおげさな言い回しになってしまうけれど、その一回の試みによって、むしろ「スカートを履けない」という事実が重みを増して、ひどく悲しくなった。

いま、若い子たちが、昔よりもずいぶんと緩んだ規範のなかで好きなことを楽しんでいる姿を目にするのは、幸せな気持ちを連れてきてくれる。無論、いまの若い子たちにはいまの若い子たちなりの檻があって、呪縛が効いていて、がんじがらめになってるんだという憤りを抱えてもいるだろうから、こんな腑抜けた言葉を直で投げかけることはできないのだけれど、それでもやっぱり、いいな、いいよ、という気持ちはある。そしてスカートの件にまつわる悲しさも、まあ、まだ胸のどっかで息をしている。履きたいって話とは違う。

@metayuki
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