どっちでもIN

metayuki
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どっちでもいいんだけど、と考えるときに高確率でともさかりえの「どっちでもIN」が頭に流れ出すのはどうでもいいことだし、それを歌っているときのともさかりえはさかともえり名義だったこともどうでもよくって。

先日、なにかの番組が流れているときに話者が「重複」を「ちょうふく」と発音していて、お、と思い画面に意識を向けた。僕は「重複」は「ちょうふく」と読みたい派なのだけれど、世の中では「じゅうふく」派が増加傾向にあり、いつのまにやら「ちょうふく」は隅に追いやられている、ような印象がある。昔、オカルト系の小説なんかを大量に読んだおかげで「調伏(ちょうぶく)=祈祷で悪魔をやっつけること」という単語も頭に入力されており、「ちょうふく」との音の近似性ゆえに「ちょうふく派はじゅうふく派によってちょうぶくされつつあるのだ」と早口言葉みたいなイメージが湧く。オーダー66でジェダイがほぼ一掃されたように、ちょうふく派もちりぢりに逃げるのが精一杯で、捲土重来を……。「捲土重来」も「じゅうらい」か「ちょうらい」か迷うところですね。どっちでもいいんだけど。

どっちでもいい、と言いつつ、公的な場で発言する際にはどうもためらいが残る。たとえば授業なんかで「これは意味が重複してますね」などと言うときには「ちょうふくしてますね、じゅうふくともいいますが」などと日和ってしまうこともしばしば。

「世論」の読みも個人的には「よろん」の方がしっくりくるのだけど、どうも「せろん」の方が勢いある気がする。「よろん」と「せろん」について考えると「与論島」と「セイロン島」について思い始めるので、読みの違いを思い悩んでいるというほどの話ではないのだけれど。ただ、なんというか、「よろん」にはより政治的な印象があって、対する「せろん」にはゴシップ的なことまで含んだ世間一般の雰囲気といった印象がある。だからなのか、公な場で「世論」を読む必要があるときには「よろん」と口にすると尊大な印象になりそうで「せろん」に傾きがちかもしれない。「世論調査」は、ぜひとも「よろんちょうさ」で読みたいのだけど、これなんかも最近は「せろんちょうさ」と読まれることがあったりして、先述のとおり「せろん」は「ふんいき」程度のものに思えている僕には「せろんちょうさ」では霧をつかまえる行為がイメージされる。

ところで「どっちでもIN」が脳内で再生されるとき「どっちでもIN 鈴木くんでも佐藤くんでも イエー」と歌ってしまうのだけれど、あらためて歌詞を調べてみたら「山本くんでも佐藤くんでも」だった。鈴木くんは「高橋くんでも鈴木くんでも」の組み合わせで2番目に登場した。それこそどっちでもいいが。

@metayuki
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