Netflixのドラマ『ザ・クラウン』、残すところあと1話となってしまい、視聴してしまうのがもったいないような気分に襲われている。
最終シーズンの後半で、エリザベス女王の妹であるマーガレット王女の死が描かれており、そのエピソードのある場面にぐっと引き込まれて、泣いた。過去の回想だと思っていた場面が、突然、マーガレットという人物の走馬灯として機能していたことを思い知らされる、そういう趣向だった。
『ザ・クラウン』はエリザベス女王のほぼ一生を描くシリーズなので、妹であるマーガレット王女についても多くの時間があてられている。奔放、情熱的、皮肉屋、といった側面が彼女という人物の主な構成要素としてあり、時代がくだってくると、ウィリアムとヘンリーの兄弟が、エリザベスとマーガレット姉妹のいわば再現として登場してくる。いわずもがな、ウィリアムとヘンリーは、現在のイギリス国王チャールズ3世の息子だ。
ドラマなので、登場人物たちは実在の人物の一側面を誇張した形で描かれる。ウィリアムとヘンリーは、母であるダイアナの悲劇を背負いながら、また、王室というプレッシャーも着込みながら、いかにそれを乗り越えていくか、あるいは、そこからどのように、どれくらい、逃げることができるか、という戦いを繰り返していく。ウィリアムとヘンリーがそれぞれに伴侶を得て、その後、王室とどのようにつながりを持っているのかは、周知のとおりである。
王室にまつわる話としてではなく、エリザベスとマーガレット、ウィリアムとヘンリーという、それぞれふたり一組としての構成について、などと小難しい言葉にする必要はないか。ドラマを見ていて何度も考えさせらえれるのは、おなじ環境下における姉妹、兄弟の成長の違いについてだ。無論、王室というのは特殊な環境には違いないのだけれど、それをいうなら、どの家庭もそれぞれに異なる特徴を持ち、そこに生まれ、生きていく人にとっては、自分の環境こそが常識であり、また、ほかと自分とを画する特殊性の温床ということにもなる。マーガレットとヘンリー、つまり、永遠の二番手の位置に据えられたふたりは、姉や兄の重責を遠目に、自分に与えられた役割は、ある種の道化としての生き方であると自認している(ドラマとしては)。僕自身、上に姉がいて、自分が道化としての生き方を選んだなんて言うつもりはないけれど、上に姉や兄がいるということで「下の子って要領よくなるよね」といった言葉を何度も投げつけられてきた。そう言われてしまうと、そう振る舞うのが当然、という意識を植えつけられてしまい、要領よさげに振る舞うのが板についていった。逆だよ、と言われるかもしれない。もとから年下としての要領のよさを備えていて、周りにそれを確認されることで、自分としても要領のよさを強化していった、ということだってありえる。まあ、それはどうでもいいや。僕が思うのは、似たもの兄弟・姉妹というのをあまり知らない、ということだ。
同じ環境で暮らしても、人は違う生き物として育っていく。世の中には互いを思いやり、補い合い、そうやって関係を保っていく兄弟姉妹もいるだろう。でも大半は、そうはならないのではないか。
自分が子育てをするようになる前は、我が子がどう育つかについて、あれこれ妄想してみた。それはつまり、自分なりの理想があった、ということでもあり、思い返してみればなんとも貧弱なイメージでしかなかった。かわいく、おとなしく、思いやりに溢れ、みたいな、ハウス名作劇場の脇役にでもあてがっておけ、といったような人物像だったりした。そして実際にいま子育ての只中にあって、その手の妄想が息を吹き返してくることもない。折々に、自分と似たところを我が子に見つけては、申し訳なさでいっぱいになり、子供たちの喧嘩を目の当たりにしては、なんとつまらないことで諍うのかと、暗い気持ちになる。だけどそれなのだ、現実って。
こう育ってほしい、という気持ちは、親のためにこそある。子供にとっては、そんな願いは駄賃にもならない。子供がどう育つかというのは、親の好悪、なにが好きで、なにが嫌いか、その反映として決まっていく。とくに幼いころは。だから僕がまるで興味のないもの、どちらかといえば苦手なもの、そういったものに子供たちが興味を持ち、接近していくことに、成長を感じる。だからといってすべてが歓迎されるわけじゃなく、親も人間なので、俺はそれ嫌い、それは受け入れがたい、ということを言っていくわけで、軋轢がそこに生まれる。アツレキまくってる、と歌ったのはナンバーガールで、ナンバーガールはそんなことを言いたいわけじゃないかもしれないけれど、誰の人生だって軋轢まくりながら続いていくので、しゃあない、『ザ・クラウン』の最終話も観てしまおう。