気づけばこれが83本目の記事とのことなので、語呂合わせが好きな僕としては「闇」について書くしかないのではないか。
母方の祖父母の家は鹿児島県の大隅半島にあって、祖父母は亡くなって久しいが、家はまだそのままにしてある。鹿児島市内に住む親戚が庭の畑で作物を育てたりして、家屋のほうも昔のまま維持されており、たまに里帰りした折にそこに泊まったりする。近所の港で夏に花火大会が催されるので、子供をつれて二度、遊びに行った。花火大会なので当然、夜の開催なのだけれど、その帰り道の暗さといったらない。田舎なので、街灯もろくにないし、人どおりもなく、車もほとんど走ってない。家と家のあいだを抜ける路地に入れば、そこはもう闇である。どのくらいの闇かといえば、手を伸ばして触れることができそうなくらい、どっしりとした黒。ああ、これが人の手のはいっていない夜の暗さなんだ、と思い知らされる。
たまに見る時代劇で、こんなふうに闇が描かれることはない。この暗さはホラー映画の領分で、どこからなにが飛び出してくるか、わかるはずもない。
映像作品のおかげで、小説など読んでいても、なんとなく場面を描くことができるようになっている。でもきっと本当はそうじゃないのだ。すこし前に『源氏物語』を読んでいて、夜に女性のところへ通う場面などでも、自分のなかに組み込まれている「映像っぽいイメージ」が邪魔になった。「映像的な文章」と評される作品があるけれど、それが向く題材もあれば、そうでない題材もあって、古い時代に書かれた作品などは、まずもって後者だろう。安直にいまの感覚で映像化すると、それでもう味わいが損なわれてしまう。月明かり、星明かりへの言及が作中になければ、それはもう闇。深く、分厚く、べったりした闇で思い描けよ、この野郎。
ホラー映画の領分、と書いたけど、ホラー映画だって映画なのだから、見えるところは見えないと駄目で、ホラー系の小説を読んでいても似たようなことは起こる。知らず知らず、自分のなかにあるホラー映像集から似た場面をピックアップしてきてイメージしている。よくないな、実によくない。でも無理、その機能をオフにすることはできない。人間だもの。イメージは湧く。
ところで、ホラーとか闇とかで思い出すのは、映画『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』である。日本での公開日が1999年12月23日らしいので、僕が劇場で観たのは2000年1月1日だ。毎月1日が映画の日で安かったので、ミニシアターへいそいそと出かけていった。元日に観る映画かね、と家族に疑問視されたけど、劇場は似た者たちでほぼ満席だった。いろんな意見があるのは承知で、僕は『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』、すごく好きだし、あの終わり方も評価している。むしろあの終わり方がすべてだ。
それで思い出したんだけど、映画館の闇が最高の闇であることに疑いの余地はない。定期的に映画館に足を運び、あの薄暗い空間で過ごすことが、僕にとっては酸素カプセルようなものだ。そういう人はきっと多いだろう。元日に『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』観るような人たちとか。