夢と気づけない

metayuki
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自宅の机に、もう長いこと『地球の歩き方 ムー 異世界の歩き方』が置かれている。本棚ではなく机の上に立てられている。普段はひらくこともないのだから棚にしまっておけばいいと自分でも思うものの、そこが定位置ですという顔つきで立っている。

中学生の一時期、『ムー』を買っていた。小学生のころからオカルト話は好きで、友人といっしょに庭に悪魔を呼び出す魔法陣を書いたときに、おそらくは偶然なのだけれど、一陣の風が吹いて、かなり怖くなった。それでもオカルトを嫌いにはならなかった。

塀の上を歩いていた子が、向こう側にぴょんと飛び降りて、それきり姿を消してしまった、というエピソードがオカルト本に載っていて、以来、塀の上から飛び降りるときには物理的な衝撃に対してだけでなく、異世界に着地してしまう可能性への勇気も奮い起こさなくてはならなくなった。飛び降りて、着地して、風景はひとつも変わっていないように見えるけれど、自分がもといたのとは別の世界に来たのかもしれないぞと、注意深く周囲を観察した。異世界だと判断する異変はなかったけれど、もとの世界のままだと確信できる拠り所だってなかった。

話はとつぜん変わるけれど、夢のなかで下半身だけ裸のまま外にいることがときどきある。これは幼少期のころ、アトピーによる睡眠中の痒さのせいで、毎晩のようにパジャマも下着も脱いでしまっていたという体験に基づくもので、剣道部の合宿になかなか参加できなかった理由でもある。眠っているあいだに下半身だけ裸になってしまったら、その姿を見られたら、こんなに恥ずかしいことはない。その恐怖はすっかり僕の心の根っこに居座ってしまった。おかげでいまもそんな夢を見る。夢の中で「これは夢だ」と気づけないこともあり、半裸(という言葉は「上半身が裸」のときに用いるのが通常で、下半身のときにはそんな生ぬるい表現は許されないのだけれど、まあ、夢の話だし、ここは「半裸」でいこうじゃないか)であることに焦る僕は衣服を探す羽目になる。何十回、もしかしたら何百回と見ているかもしれない夢なのに、いまだ夢と気づけない我が愚かさにも呆れる。

で、こう考える。オカルト好きも関係しているのではないか、と。

夢の中で夢だと気づくためには、「現実」について確たる足場を持っていなくてはならない。現実あってこそ、「これは夢だ」と言えるのだ。塀の上から飛び降りて「ここはほんとにもとどおりの世界なのか」などと妄想をたくましくしていた人間には、現実らしい現実が確立できていないのだろう。

『エルム街の悪夢4 ザ・ドリームマスター』では、フレディと戦うために夢の中で夢と自覚するための訓練を行うくだりがあった。わりと真剣にその手法を参考にしたのだけれど、『エルム街の悪夢』を楽しんでる時点でおまえはちっとも現実を見る気がないんだな、と、いまならわかる。

いや、あんた、確定申告であれだけぜえぜえ言ってるのに、まだ現実を確立できていないなんて。

@metayuki
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