納得の問題

metayuki
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今日、とつぜん、停電に見舞われた。昼日中のことで、家族全員が自宅に揃っていて、それぞれに活動している最中に、家電製品たちがどこかに吸い込まれるような、ひゅうぅうん、という音のあとで消えてしまった。消えたのは主に照明だけなのだけれど、動いていたものが停まっただけでなく、それとはべつに、なにかが消えた気がした。

洗濯機をまわしている最中だったこともあり、こちらも停まった。デスクトップをつけっぱなしにしておいたことも痛手ではあったけれど、洗濯も、最初からやりなおし、というのが納得できなかった。

「納得」なんて、する必要もない。だって停電と洗濯は、関連はしているけれど、こちらの気持ちに沿って動いているわけじゃない。なにが納得いかないかといえば、途中まで進んでいた洗濯を、その途中段階からやりなおすことがかなわず、ふりだしにもどってしまうのがいやだ、ということ。自分で手洗いしているのでもないから、やりなおしと言ったって洗濯機の電源を入れ直し、洗剤をまた投入するのはもったいないからそのまんまスタートボタンを押せばいい。それだけのこと。「納得」云々ということではまったくない。日照時間を考えると、干す時間が短くなることが不満? それもあるかもしれない。しかしそのときまわしていたのは子の制服のブラウス一枚で、この季節の陽気であればあっというまに乾いてしまう。

考えれば考えるほど、「納得いかない」という自分の苛立ちのほうが納得いかないと思えてくる。

昨日、とあるニュース記事を読んでいて「心が折れる」という表現が複数回出てきたので、べつの言い回しにしないかな、と余計なお世話が浮かんだ。表現の重複というよりは、「心が折れる」という言葉で片付けられてしまうことが、どうかな、と気になった。

「納得いかない」にも、似た危うさを思った。不意打ちの停電(最近は停電するにも予告状が届く)と寸断された洗濯なんて、「たかが」と言ってもいいくらいの事態で、だけど主観的に「納得いかない!」と息巻いてしまえば、ずいぶんたいそうな問題になって思える。たいそうな問題にしたがっているのは自分であって、上にも書いたとおり、自分が被ったマイナスなんてあるようなないようなレベルだ。

「心が折れた」もいつからか一般に使われだして、その程度がわかりにくくなってしまった。本当に深い挫折であるほど、心折れた、では追いつかなくなったというか。

最近この手の話題を書くこと多いな。きっとそういう方面のことをあれこれ考えているからだろう。あるいは子供と接しているからだろう。なんというか、同じ表現で波打ち際から深海までくくられてしまうような、極端にいえばそんな言葉になってしまうので、こちらも読み誤る気がしてびびっている。「やばい」という言葉はもうぜんぜん「やばい」ときには使われなさそうだから、ほとんど気にも留めないけれど、たとえば「ひどい」という表現が登場したときには、さっと身構えてしまう。どの程度「ひどい」のかを把握しないと、ほんとうに「ひどい」状況ならこっちも強く踏み出す必要があるから。

これはネガティブな言葉だけじゃなく、ポジティブな言葉でも同じ状況が到来していて、わかりやすさと伝わりやすさも混同されているし、わかることとわかりやすいこともごっちゃになっている。

偉そうに意見したところで、自分だって「納得いかない」と思ったのだから、よろしくない。

停電は、すぐに復旧し、その数分後にまた停電になり、そしてすぐに復旧した。三度目が起こることを考え、しばらくはなにも動かさず、十分ほど待ったあとで洗濯機を再び動かした。

案の定、制服のブラウスはあっさり乾いてしまって、稚拙な自分の思いだけが頑固汚れみたく胸に残る結果となった。

(いかにもなオチもどうかと思うよ、きみ)

@metayuki
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