ナイーブだね

metayuki
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「シンデレラ」の話をしながら、結末のところを「王子様と結婚してめでたしめでたし」と言ったあとで、いまはそうでもないか、と思い直した。玉の輿、ならめでたし、というのでもなかろう。じゃあ、意地悪な姉たちから独立して、王子様を共同経営者として起業しました、というのも安直だし、つまらない。はいはい、こうしておけば現代風でしょ、みたいな感じが鼻につくし、なんならもう「起業しました」を現代風とかいってるのが枯れてる。

じゃあどうしたらいいんだよ。逆ギレ。

なにがどうなればハッピーエンドなのか、と考えてみると、ハッピーエンドが成り立ちにくい世の中なのかもというところに行き着く。

こういう話題になると『アンナ・カレーニナ』の登場となる。幸せな家庭は似てるけど不幸な家庭はそれぞれに不幸だね、というお言葉。でもこれももう機能不全に近いところにあるのかもしれない。「家庭」という単位で幸せを計れないというか。家庭なんてどれも不幸だね、と言われたほうが、だねだね、と賛同を得られるかもしれない現代社会。

十代のころの僕は人に好かれるということが自分には起こり得ないと信じ込んでいて、当時はドラマもヒット曲も愛こそすべての大合唱だったから、初めて交際した人と生涯添い遂げることこそが最高の幸せだと(もし自分にそんな奇跡が起こるのであれば、という仮定法で)考えていたし、なんならそれを「復讐」とまで思っていた。誰に対する、あるいは何に対する復讐なのかというと、べつに対象があったわけじゃない。のちに「中2病」と呼ばれるようになる現象に過ぎないわけで、世間が自分を貶めていたわけでもないのに、世間に対しての復讐こそが生きる道だと思いこんでいた。ははははは。

そんなだから『僕の心のヤバイやつ』はぐっさぐさと胸をえぐり、過去を掘り返し、そして今に生き延びる自分の嘘くささを直視することになるのだけれど、ちょうど一年前にこの道を通った夜、ではなくて、ちょうど一年前に村上春樹『街とその不確かな壁』を読んだとき、あ、これは『僕ヤバ』ではないか、と思って、わけのわからない感動に打ち震えた。もう、もう、読んでいていたたまれないこと嵐のごとしで、そっか、俺はこの感覚を一生保管していくのかと思い知らされた。

そもそも幸不幸を色分けできる人生でもないのだ。多分、誰だってそうで、そんなのあったりまえじゃん、いい歳してまだそんなこと言ってるのずいぶんナイーブだね、って話ではあるのだけれど。

まあ、「シンデレラ」の終わりについてあれこれ考えてるくらいなので、ナイーブさが強めであることは否定しない。あ、iPadのCMも見てて辛くなったクチです、はい。

@metayuki
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