ブーケガルニからの迂回路

metayuki
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川上弘美さんの『恋ははかない、あるいは、プールの底のステーキ』(講談社)の中に、語り手とそのまわりに離婚経験者が多い、というくだりがあって、そういえば僕の友人たちから離婚したという話をとんと聞かないな、と思った。まあ、友達と呼べる関係がそれほどないし、普段から連絡を取り合うほどの相手となると片手でも余るし……。あ、でも、と気づいた。親戚の離婚率は高い。ははははは。自慢ではない。ないが、離婚がそれほど特別なものでもないとは思う。そもそも結婚がさあ、という話を始めると長いし結論も出そうにないからよしておく。

なにかを始めることよりも終わらせることのほうが難しい、と思い知るのはそれなりに年齢を重ねてからで、終わらせないままにしていることのほうがうんざりするくらいに多い。言い方は汚いけど、振り返って目にするのは自分の歩いてきた道なんかじゃなく、ほったらかしにしてきたもろもろの積み重なったゴミ捨て場だろう。そして自分ではそれをゴミと思えない。

大事なものだけ両手に持って、それ以外のしがらみを背中に背負って、それが人生のように思えるけれど、自覚して運んでいるつもりのものだけじゃなくて、腰に巻いたロープで不用品を積んだ荷台を引っ張っていくのもまた人生で、重い。断捨離が流行るのもわかる。重荷を軽荷にしたい。(と思いつきで書いてみるまで「かるに」で「軽荷」に変換されるの知らなかったし、そんな言葉があることも知らずにいた。無知)

話は逸れるけれど、軽荷、と書きながら頭に浮かべたのはブーケガルニだった。ブーケガルニとは洋風の煮込み料理に使われるハーブの束のこと。普段はまるで使わないし意識することもまずない単語なのに飛び出してきて、持て余している。俺の生活に必要ない語彙なのに、なぜおぼえているのか。

駄洒落を言うつもりはなくても脳が勝手に言葉をつなぐのは昔からの癖で、サムソナイトなんて一度も持ったことないくせに、「○○しないと」と考えると即座に現れて「〇〇しないとサムソナイト」と自己主張を始める。迷惑です。しかもあいつ、冬に「寒そう」と思ったときにも「サムソナイトです」って顔してやってくるの、腹立つ。映画『インセプション』でディカプリオが「象のことを想像するな」と言う場面が冒頭近くにあるけど、もう、あれ、あれが俺の場合サムソナイト。考えたくないのに出てくる。おもしろくともなんともないから声に出すこともないけど、年に20回くらいは思ってる。おのれサムソナイト。

あと、これも癖で、すぐに回文を作ろうとする。回文が好きなのではなくて(好きだけど)、言葉を逆から考える癖があって、その延長線上で回文を試してしまう。今日も自宅でたこ焼きをつくって食べているときに、「あつ、あつ」って言ってたら、その文字が頭の中で反転して、つあ、つあ、となり「俺がバンド組んだりしてツアーに出ることになったらさ、ツアータイトルを、熱々ツアーツアーにするね」と言ってしまった。子供に「また回文」と指摘されたうえに「言うと思った、ツアーって言った瞬間にわかった」と見抜かれていた。くやしかったので「だけど熱々ツアーツアーって言うとこまではわからなかっただろ。熱々ツアーまでがツアータイトルで、『熱々ツアー』ツアーだから、そうじゃないと回文にならないから」と言い募った。アホかな。アホだな。

逸れた話が本題みたいなボリュームに膨らんで、どうしようもない。「どうしようもない」と打ったら変換候補に「どうしようもない僕に天使が降りてきた」が現れて、マッキーの歌声が離れなくなったので、本日はこのへんで。あれも良い歌なんだよな。

@metayuki
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