熊本日日新聞の読書欄で書評を担当させてもらうようになって、ずいぶん経つ。だいたい3ヶ月に1回の頻度でまわってくるので、年間3〜4本を書くのだけれど、僕は毎回、海外の新刊小説を紹介している。これは指定があったわけじゃなく、こちらで勝手に決めているだけで、ほかの評者のみなさんがどういった作品を紹介しているのか知らないものの、おそらく、それぞれの専門分野だったり、そのときどきで気になった書籍だったりを選ばれているはずだ。僕が海外の小説を選ぶのは、単に好きだから、ということもあるし、翻訳ものは国内の作品とくらべても宣伝の機会が少ないだろうという考えもある。安直な言い回しになるけれど、僕が紹介することでひとりでも多くの人が手にとってくれたら、それは最高に嬉しい展開だ。
今回はイタリアの作家パオロ・コニェッティの『狼の幸せ』(飯田亮介 訳、早川書房)を紹介する予定で、この三連休もちょこちょことテキストに手を入れていた。
書評を書くにあたっては、まず、作品を読む。つぎに、作品を読む。それから、気になった、あるいは気に入った文章を書き写す。それでもう一回、ざっと読み返す。そこまでくると、なにを書くか、どう書くか、という塊のようなものが胸の中に生じている。みんなの気をわけてもらって元気玉を練り上げていくみたいに、繰り返し作品に潜ることで紹介の言葉をひろいあつめて固めていく、そんな感じだ。
そして初稿を書く。文字数のことを気にせず、自分の中にできあがった塊をいったんぜんぶ出してみる。そうすると、だいたい、規定の文字数の1.5倍から2倍程度になっている。そいつを素材として、規定の文字数に収まるようリライトする。リライトする際に、ぜんぜん使えない部分を削り、ぜんぜん書いてなかったことをゴロリと押し込んでみたりする。だいたい初稿なんてものは骨格程度にしか残らない。リライトを終えたら、文字の組み方を変えて、画面上で読んでみて、細かいところに手を入れたのちに、印刷してみる。赤ペンを手に、印刷した文章を読み直して推敲していく。ここでもだいたい半分くらいの文章が別のものに置き換わっていく。ふたたびパソコンに戻り、赤字を反映させていく。そうするとまた規定文字数をオーバーしているので、再度、収まるよう微調整を施し、そのあたりでようやく完成形が見えてくる。妻に読んでもらい、意見をもらって、手直しが必要なときはもう一度作業する。そんなこんなで完成した文章に仮のタイトルをつけて、新聞社の担当者に送信し、そこからゲラのやりとりなどでだいたい2往復。その間にもちょっとずつ修正が入ったりする。
文章の書き方は千差万別なので、自分のやり方がどうのこうのというつもりはなく、ただ、こんなふうに書いてますというだけの話でしかない。
一方、ここ(しずかなインターネット)に書いている文章はほぼ一筆書きみたいなもので、推敲らしい推敲もしていない。誤字脱字もあちこちに残っていると思う。たまに過去の文章を読み返して、さすがにこれは、と感じるところについてはこっそり修正してたりする。書いている側としては、どちらのスタイルの文章にも、書く楽しみはちゃんとある。書くって楽しい。
ところで『狼の幸せ』は素敵な作品で、だからこそ書評の対象に選んだのだけれど、読んでいると、なんというか、生きるとか死ぬとかいったこととは別のところで人は存在できるんじゃないか、という気持ちが湧いてくる。つまり、生きるとか死ぬとか、生きる意味とか死ぬ意味とか、そうした諸々が人間の勝手な線引きでしかなくて、自然の一部であることを受け入れてみると、世界はがらりと姿を変えてしまう、ということのような。ちゃんとした説明になってないな。これ、書評だったら赤ペンでざーっと消すやつ。
書評では文字数の問題で書けなかったけれど、読んだ誰もがおぼえてしまいそうな一文があった。以下に引用しておく。
日はとうに稜線の向こうに沈んだが、まだ辺りは完全に暗くなってはおらず、フランス人が「犬と狼のあいだ」と呼ぶ時間帯だ。
これ。「犬と狼のあいだ」。日本では「誰そ彼時(たそがれどき)」と言って、これも魅力的な表現だけど、「犬と狼のあいだ」も、いい。
読もう。『狼の幸せ』。