ぜんぶ青い

metayuki
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すこし前に、ずいぶんと落ち込んだことがあって、そのときにもこうやって文章を書いた。さっきそれを思い出してファイルを探したところ、ファイル名が「どこにいてもおちつかない」で、かなりきてますね、と我が身を振り返った。ではなくて、我が心を省みた。

しかし、「どこにいてもおちつかない」は一過性の感覚ではなくて、ほとんど生来的に備わった性質であり、ハッピーサイコー俺なんでもできる! みたいに上機嫌なときだって「どこにいてもおちつかない?」と問われたら「どこにいてもおちつかない」と答えるだろう。笑顔いっぱいで答えたっていい。「ああ、ですです、どこにいてもぜんっぜんおちつかないですね! かんぱーい!」みたいに。

子供のころから落ち着きがなかった。ひとところにじっとしているのが苦手だった。じゃあ外を走りまわるのが好きだったのかといえば、そんなこともなかった。本を読むとかゲームで遊ぶとかしているほうが好きだった。どこかに属するのが苦手だった。「そういう人は多いんだよ」と言われてもぜんぜん慰めにならなくて、多くの「そういう人」たちもきっと同じ気持ちだろうと思っていた。「大人になればそんなこともなくなるよ」と言われたこともある。これはちょっと当たっていた。僕の場合、という留保が必要になるだろうけど、落ち着いていたほうがいいときには落ち着いていられるようになった。擬態が上達した、とも言える。またそんなかっこつけた言いまわしでごまかしちゃって、という指摘も同時に浮かぶ。

大学生のころ、中学時代の友人とばったり会って、「なんか、中山、変わったな」とドラマみたいに言われたことがあった。

その友人は崖みたいな斜面に建つ家に住んでいて、親の暮らす母屋ではなく、掘っ立て小屋めいた平屋を自分の部屋として与えられていた。当然のように溜まり場になった。彼は不良とはウマがあわなかったらしく、僕みたいな、どこにも属せない半端者が何人か集まって、ゲームしたり、漫画読んだりで時間を過ごした。その友人は夜遅くに出歩いても親から咎められたりしないらしく、不良グループに属してこそいないものの、中学生らしからぬ雰囲気があった。大人びている、というよりは、老成している、といった感じで、浮かべる笑みには常にシニカルな陰がさしていた。べつの高校に行き、僕も彼もそれぞれの学校で吹奏楽部に入ったので、演奏会やらコンクールやらで顔をあわせる機会はあったのだけど、親しく交流することはなくなった。

そんな彼と、特急列車を待つ駅のホームでばったり再会した。セリフもだし、場面設定もありきたりなドラマみたいだ。ほとんど言葉もかわさないうちに「なんか、中山、変わったな」と言われ、僕はうれしくなった。彼に近づけた気がしたからだ。

シニカルで老成した友人は、中学時代からずっと、そこにいない人に見えていた。そこにいるけどいない、ほんとうはここにいない、いてたまるか、というスタンスだ。

彼の人格がいかにして形成されたか、家庭環境などを考慮すると、憧れの対象にするのはどうかと思うけど、彼の「変わったな」の言い方には僕を認めてくれるような響きがあって、だからうれしくなった。

いまとなっては、その思い出のどれもが青い。

崖みたいな斜面はその後、宅地として造成され、安定した土地になった。そんなふうに変わってしまった景色を見てもちっとも悲しくならないし、彼もそうにちがいない。

@metayuki
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