子供が「マルサ進行」について話しはじめたとき、僕の頭に浮かんだのは宮本信子だった。ああ、あの査察の人たちが二列でやってきて建物に入っていくところね、というところまで浮かんだ。違った。わかってるよ、違うって。でも浮かんだのさ、「マルサ」の響きに導かれて宮本信子がやってきたのさ。文字で目にしたことはあったけど、声では初めてだったから。
「マルサ進行」とは曲のコード進行のことで、椎名林檎の「丸の内サディスティック」がそのコードを使っているところから「マルサ進行」と呼ばれるようになった。もっと古くからあるのだけれど、誰が言い始めたのやら、マルサ。じゃなくて、「丸サ」。「丸サ進行」。
『マルサの女』といえば(けっきょくそっち行くのか)伊丹十三であり、伊丹十三といえばエッセイストである。なんてことは僕ら世代ではもう通じない。伊丹十三は映画監督のイメージが強い。
すごくどうでもいい記憶をひとつ。伊丹十三の監督デビュー作『お葬式』は1984年の公開で、その年の日本アカデミー賞を席巻した。たしか僕も両親といっしょに劇場で観たな、『お葬式』。小学3年生にわかるわけないのだが、あのおもしろさ。さておき、日本アカデミー賞の授賞式がテレビで放送されていて、我が家でもそれを観ていたところ、あの賞もこの賞も『お葬式』が受賞していった。すると父が母に向かってこう言った。
「お葬式が総なめだな」
当時の僕は「総なめ」という言葉を知らなかった。状況から、意味を推測はできたと思うけれど、確証なんてなかった。小学生男子の日常で「総なめ」という表現を使う場面もなかったし。
「総なめ」に似た響きの言葉で「総花」というものがある。これは大人になるまで知らなかった。百貨店の広告制作に携わるようになり、たくさんの商品をちりばめる際に「総花的にレイアウトして」という指示を聞いたのがその言葉との出会いでした。
ええ、当時の私は社会に出たばかりのひよっこ。右も左もわからないばかりか、コピーライターとしての勉強はしてきたものの、デザインについては知識も乏しく、てんで駄目。ディレクターの影に身を潜めるようにして、打合せの席で飛び交う言葉に耳を傾けていました。「総花的にレイアウトして」とクライアントが言うと、ディレクターはなんの疑問も持つことなく「はい」と答えていました。私はといえば、「そうばなてき」に「総花的」という漢字をあてることも思い浮かばず、思い浮かんだところでその言葉はクエスチョンマークに姿を変えるに決まっているのですが、ディレクターだけでなく、その場にいるほかの全員が、私とそう変わらないキャリアの若手デザイナーも含め、みなが「はい、承知しました」の空気だったので、おいそれと質問もできずにいました。
なにこの文体。
その後、無事に「総花」の意味も知ったけれど、自分からその言葉を発したことは、たぶん、ない。「総なめ」も使う機会ないな。おかげでどちらの言葉も特定の人と結びついて考えてしまう。「丸サ進行」も、もう宮本信子なしに思えない。