春が近づくと、高校の卒業式を思い出す。良い思い出ではない。
私の両親は1月1日に離婚届を出した。区切りがいいからだと父は説明していたが、私にはどうでもいいことだった。大学進学とともに上京すると決まっていたので、私は父方の祖父母の家に身を寄せて高校最後の三ヶ月を暮らした。父と母はそれぞれにマンションを借りてひとりぐらしを送っていた。離婚後、父と母のそれぞれに会う機会が何度かあって、ふたりとも確かに夫婦生活末期よりも顔色がよくなっていた。わかりやすい人たちだった。
両親はどちらも高校教師で、それぞれの勤務先の卒業式が、私の卒業式と同じ日程だった。私としてはラッキーで、こちらの卒業式でふたりが顔を合わせるなんてことは御免被りたいと心から思っていた。祖父母たちにも来なくていいと伝えていた。友人たちと楽しく笑って別れられるのが、私にとっていちばんの卒業式だと考えていた。そしてその願いはかなえられた。卒業式に私の肉親はひとりも現れず、「両親がどちらも高校教員で」と説明すれば、大人たちは事情を把握してくれた。友人の親に写真を撮ってもらい、部活の後輩たちとも写真を撮って別れを惜しみ、お昼を過ぎたあたりでぽつぽつと皆が帰りはじめた。以前は(というのはつまり両親の離婚前は)自転車通学だったが、祖父母の家は学校から遠く、バスを乗り継いでの通学になっていた。バスの時刻にあわせるため、私はほとんど最後まで校舎に残り、「送っていこうか」という担任の申し出も感謝だけ伝えて断った。
校門を出てバス停まで歩いているところに、見慣れた車がこちらに向かってくるのが見えた。父の車だった。驚いたことに、助手席に母の姿もあった。私に気づいた父がハザードをつけて路肩に車を止めた。交通量の多い道ではなかったが、ゼロというわけではなく、突然の停車に後続の車がクラクションを鳴らした。
車を降りてきたふたりは、私に「卒業おめでとう」というより先に、いっしょに来るつもりじゃなかった、来る途中に父が母を見かけ、無視することもできず仕方なしに乗せることになったと説明をはじめたかと思うと、母は母で、私の服装や髪型のだらしなさを注意しはじめた。挙げ句、私の通っていた高校が、偏差値がいいだけのズボラ高校だなんだと非難をはじめ、父はそれを諌めるような口ぶりで母の偽善性について意見を述べ始めた。
それが私の卒業式の思い出だ。
何年か過ぎてから父と話す機会があった。母とたまに会っていると言われて驚いた。てっきりあの日を最後にふたりも会わなくなったと思い込んでいたのだが、父が言うには、私が泣いて路線バスに乗ったあと、父と母はひとしきり互いを罵り、そして反省したのだそうだ。勝手だなと、私は苛立ち、呆れた。
それなのに、今日、自分の子の卒業式で私は両親のことを思い出した。それまで考えたこともなかったが、遅れて体育館に入ってきた保護者の姿を目にしたとき、父と母がそれぞれの勤務先から私の通った高校へ急ぐ姿が思い浮かんだ。
これは美談ではない。私はいまもまだ両親を許せていない。しかし「許せていない」という言葉が頭に灯るだけで、細部は年々薄れていっている。許せないという言葉ひとつが最後まで残る気が、このごろはしている。砂漠に忽然と現れるビルの残骸のように、人がいたということ以外になにもわからなくなってしまうような具合に。
路線バスの座席で私は号泣した。卒業証書の筒を持っていたので、私を見た人は勘違いしただろう。
生きているとなにもかもが断片的になっていって、線で結ぶことが次第に難しくなっていく。バスで号泣した私がいて、喧嘩した両親がいて、その前に高校へ急ぐ両親がいた。ずっとあとに、私抜きで仲を回復させた両親もいた。私が最後まで怒っていた。
そんなことを考えて、もう自分が怒ってはいないことを理解した。