息子の健太郎が「もう身長追いついたんじゃない?」と言ってきたとき、まどかは嘘を指摘でもされたようにまごついてしまった。健太郎はいとも簡単にとなりに立って、肩をくっつけてきて、「ほら」と得意気に目を合わせてきた。
「ママの服、貸してよ」
「なんでよ、自分のあるでしょ」
「ちっちゃいんだよ」
「だからって」
「いいじゃん、ママの服、男っぽいのばっかりなんだから」
普段からカジュアルでゆったりした服を好んでいるのは事実だったので、古い服をいくつか選んで健太郎に貸した。よく似合っていた。
中学生になったら「クソババア」の一言くらいぶつけられる覚悟でいたが、いまのところそんな態度を見せることがないどころか、友達の前でも平気な顔で「ママ」と話しかけてくる。自分が中学生のころは、もっと自意識過剰で、他人にどう見られているかを検討したうえでしか言葉を発せなかった。
まどかには、年子の姉がいた。きれいな人で、愛嬌もあって、妹にも優しかった。いつも引け目を感じていたし、思春期にはいっしょに出歩くのを避けるようになった。それが原因だろうと自分では考えているのだけれど、やはり思春期のころ、まどかは男になりたかった。ひょっとして自分は男なんじゃないかと考えたこともあった。服装も、趣味も、男子っぽいものを好んだ。体が変化していくことが気持ち悪く感じられたし、周囲の男子たちの変化のなさに憧れた。
美術の先生と親しくなり、まどかは、自分が男の子かもしれないという悩みを打ち明けた。先生は「一過的なもので、そんなふうに感じる人は多いよ」とおだやかに教えてくれた。体の変化に心が追いつかなくて、そう感じてしまっているだけだという説明は、理屈としてはよくわかるものだった。
その後も、自分が女であるということに確信は持てずに生きてきた。恋愛し、結婚し、出産もした。なにか、でも、わからないものが、繰り越されるように残ってきた。
健太郎を産んだあと、姉がお祝いに来てくれて、病室で赤ん坊を抱っこしながら、こんなことを言った。
「いいなあ。この子ちょうだいよ」
その言葉以上におどろいたのは、自分が「いいよ」と答えそうになったことだった。結婚したが妊娠しなかった姉のために産んだ子のように思えてしまった。だって私は女じゃないから。そんな釈明の言葉まで浮かんだ。
「うそ、じょうだん」と姉が慌てて打ち消したので、まどかの回答も内側に戻った。
それから十四年が過ぎた。健太郎はすくすくと育ち、まどかと夫の仲も順調に続いている。姉夫婦も人生を謳歌している。美術の先生が言ったとおり、不安な気持ちは一過性のものだった。そう思えていた。しかし、まどかの服をするりと着こなしてしまった健太郎の姿を見たとき、不安が戻ってきた。
もっとしっかり考えて言葉にしたほうがいいのだろうか。それとも言葉にしたら問題になってしまうから、このぼんやりとした不安のまま蒸発してしまうのを待ったほうがいいのか。どちらが正しいのか、決めきれなかった。