写真の自分を見て、なんか疲れた顔してるな、って思ったけど、ただの老化であろう。じゃ、いいか。
あたりまえだけれど、自分の変化には気づきにくいもので、毎日鏡は見るけれど、鏡にうつった自分なんて自分に見せるための顔をつくっているに決まっていて、自分では見えていないときにぼけっとしたりすれば、それこそがほんとうの、もっとも自然な顔であるはず。鏡の前でそんなふうに自然に振る舞うことはできない。文字通り、自分のことをいちばんわかっていないのは自分ということになる。だからこそ、映像になった自分をふとしたときに目撃して、えっ、とたじろいでしまう。認めたくはないけれど、でも、認めざるをえない。
幼い頃は老け顔だとほうぼうで言われ、自分は老け顔なのだと子供心にもそう思うようになった。それが多分、二十代半ばあたりで逆転して、実年齢よりも若く見えると言われるようになった。老け顔あるある。
顔で言えば、目つきが悪いという誹りを受けたことも数しれない。そんなつもりはないのだけれど、真顔でいると反抗的だとか言いたいことがあるのかとか、なんだかだといいがかりをつけられた。小学五年生のときにはひとつ上の男子に「目つきが悪い」という理由で腹部を殴られた。いや、そこだけ抜き出すとフェアじゃないな。鏡で陽光を反射させる遊びが流行っていて、数名の男子で休み時間に向かいの校舎に向かって光を反射させていた。多分、いたずらごころも働いて、あちらの校舎にいる児童にも光を向けたりしていた。すると階段をのぼっている途中だった六年生がこちらを振り返り、階段を二段とか三段とか飛ばして降りていった。彼が僕らの教室へやってくるのだ、すぐに理解した。その六年生は、いわゆる不良的な人物で、小学生の不良なんてたかが知れてると思われるかもしれないが、いやいやこれがかなり筋金入りって感じで、中高生の不良たちといつもつるんでいる、というタマだった。こちらの教室はばれているので、逃げたところでどうしようもなく、あっというまに彼は僕らの教室に姿を見せた。教室のみんなが息を呑むのがわかった。彼はまったく躊躇なく五年生の教室に入ってきて、鏡で遊んでいた僕らグループを見定めるとこちらに近づいてきた。四、五人はいたのに、彼はまっさきに僕を標的に決めて「なんかその目つき」と言いながら、鳩尾に拳をつきあげてきた。
トカゲを思わせる顔立ちで、いつも片目を半分閉じたふうにして、髪には剃り込みが入っていた。痩せて、だれにも反抗的な態度で、つまらなさそうにしていた。笑うところも見かけたことはあるけれど、彼の笑いはどれも、その場限りのもの、という印象があった。心の底から好きなものや、これをやっている時間はしあわせといったものが、ひとつもないのかもしれなかった。だれかが喜ばせてくれないと笑うこともない。そんな印象だった。中学でも彼はヤンキーで、その後、どこに行ったのかは知らない。喧嘩できれば喧嘩する。モノにやつあたりして、むしゃくしゃをやわらげる。校内で煙草を吸って、教師たちを笑い者にする。だんだんと実年齢よりも幼い人になっていくようだった。
不良の多くは、背伸びをして、実年齢よりも大人びた振る舞いに身を投じていた。でもそれがどこかで逆転する。老け顔と同じだ。どこかの時点で年齢が振る舞いを追い越し、子供っぽい大人になっていく。そうじゃない人も大勢いるけれど、僕の鳩尾を殴った彼が口にする言葉は、いつまでも子供のそれみたいなものだった。
しかし、それにしたって、校舎の壁をひょいひょいと飛び回る反射の光の美しさったらなかった。殴られた甲斐もあったというものだ。