ネクタイを引っ張ったら出てきた話

metayuki
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ネクタイを忘れて池袋をさまよう夢を見た。ネクタイをしめていないのに、とても息苦しい夢だった。

僕がはじめて自分のネクタイを手にしたのは高校生のときで、吹奏楽部の定期演奏会のポップスコーナーで男子はネクタイ着用となり、緑地に白い水玉のネクタイを買ってもらった。父にネクタイの結び方を教わり、何度も練習した。つぎに購入したのは大学入学時で、そのつぎが成人式のときだったと記憶している。30年近く前の品なのに、どれもまだ現役で使える。ついでにいえば、いま、これを書いているときにつけているネクタイは成人式のために買った品だ。

仕事柄、普段ネクタイをしめることがない。べつにしめたっていいのだし、ネクタイは好きだからたまに着用することもある。僕らが若いころには自由と愛とが崇高なるものとして叫ばれ、ネクタイやスーツは服従の象徴みたいな扱いを受けていた。まさかファッションで好きこのんでネクタイする大人になるとは、当時は思ってもみなかったわけで、生きてみるものだと、おおげさながらに感じる。

社会人になって、昔の同級生とばったり会うことなんかも何度かあって、相手はスーツにネクタイという格好だったりして、「いまなにしてんの」とビールなんか飲みながら聞いたりしてみても、仕事のことはあんまり頭に入ってこなかった。その場では興味深く聞いてるくせに、あとになって思い出せるのは、失敗談とか思い出話とか、そういったことに偏っている。仕事については、あっちもそれほど話したがらなかったり、そもそもそんなに好きじゃないんだよって態度だったりする。好きでもなければ面白くもないと当人が感じている話題には栄養価が不足するんだろう。

取材仕事で話を聞く際には、ほとんどの人が自分のやっていること、それは仕事だったり創作だったり家事育児だったり研究だったりといろいろで、共通しているのは、どの話もおもしろい、という点。好きっていうのは最高の調味料だ。

そしてもうひとつ共通しているのは、取材で聞ける話のほんとうにおもしろい部分は、記事にできないところ、という点。本音とか、益体もない話とか、不平不満とか。「これは流通に乗せらんないんだけど、このあたりの人はここんとこをいちばんうまいっていうね」みたいな部位だ。

たとえばパン職人の取材で、なぜだか育児論に話題がスライドしたことがあり、職人さんがまだ泳げない我が子たちを滝壺に突き落として泳ぎを体得させた、という話を聞いたことがある。と、その部分だけ抜き出してしまうと虐待にも近い話になってしまうのだけれど、そこに至るまでの会話の流れ、そこからつながっていく「人の本能」に関する話題というのは、予定していた紙面にはとうてい盛り込めないものだった。

僕はコピーライターとしてキャリアをスタートさせたので、キャッチコピーを筆頭に、いかに短い言葉で表現し、伝えるか、ということに四苦八苦してきたのだけれど、その割に、短い言葉というのが好みではない。たぶん、言葉にはオートフォーカス機能なんてついていなくて、じっくり丁寧に調整していかないと人の心と重ねきれない。

いやいや、だけど短い言葉の魅力もあるじゃないか、とも思う。思うし、知ってもいる。だから正確には、僕は短い言葉が不得手なのだ、ということになる。

かつて福岡・天神にあったファッションビルのマツヤレディスは、広告の素敵さでも群を抜いていた。僕がいちばん好きなのは「いまかっこよかったのに、もうかっこわるい。」というキャッチコピーだ。当時、電通九州のコピーライターであられた門田さんの作で、後年、門田さんの講座に通って僕はコピーライターの門を叩くことになった。

ファッションの本質がどんなもんか知らんけど、上のコピーを見たときに、これはそうかも、と思わされた。ウロボロスみたいに、このコピーはすぐにも逆転しそうで、つまり「いまかっこわるかったのに、もうかっこいい。」でも成立する。無限の循環がこの一文にパッケージされているのだ。そしてこのコピーの素晴らしいところは、と、またしも長い長い文章で説明してしまいそうになるのが自分という生き物なのだと、はい、そういう自覚はしっかりとあります。

ところでネクタイにも流行り廃りはあるのだけれど、最初に書いたように初めてのネクタイもまだ使ったりするので、ネクタイはそのものの長さよりもずっとずっと長く使える存在なのです。(ほら、短い言葉、不得手)

@metayuki
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