すまねえ、寝ます。

metayuki
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子供を叱るのが得意な人はいない。そう思う。

そもそも叱るのが「得意」とはどういうことだろう。躾、マナー、そういったことを会得させるコツを熟知している、ということか。ならば「叱る」がそぐわないことになる。叱って叱って身に沁ませる、というのもよくはないだろうし、叱るというのは強制の言い換えでもあるので、そんなのが「得意」といえる人はいくらかの狂気が混じっている気がする。

だけど「叱るの苦手」という弱音は簡単に成立する、気がする。自分も言ってるし。「俺、叱るの苦手なんだよね」と。「苦手」があるなら対極に「得意」もありそうだけど、でも、ないでしょ。

「叱るの苦手」というのは、つまり、うまく叱れない、ということ。うまく叱れないというのは、相手をいてこましてやりたいわけじゃなく、間違いを指摘して、次からは正しく動いてくれればそれでいいんだけど、なかなかそういうふうに自分の言葉や態度が機能してくれない、という悩みだと理解する。相手がぜんぜん言うこと聞いてくれない、というのもあるか。子育てにおいてはそっちのもどかしさのほうが強そうだ。

先日、わりと派手に子を叱った。派手、というか、僕の叱り方はねちっこくて、派手さはそんなにない。正論で追い詰めて追い詰めて追い詰めていく。やな親だな。子供のころからそうだった。喧嘩になると正論を盾に詰めていくタイプ。自分の親から「相手に逃げ場を残せ」と注意されたこともある。都度、反省はするものの、若いころは「なんだとてめえ」という怒りとともに正論で攻めに攻めた。すみません、ごめんなさい。といいつつ、我が子に対してはまた正論軍を出動させている。なぜか。どこまでが躾なのか線引きできていないからだろう。

しかし正論というのも難しい。家庭における躾というのは、世間一般における常識あるいは良識について学ぶという側面があり、だけど実際のところ常識なんてものは不安定でぶよぶよした代物で、ところ変われば価値観変わる。子供に伝えられるのは「うちではこういう考え方で生活をまわしてます」ということまで。それをよその人にまで強制してはならぬ、ということもセットで伝えている。じゃあ正しさってなんなのよ。自分を敬いつつ、他人と融和する、くらいのところだろうか。

その先日のできごとでは、かなりきつく叱ったあとに、子供側からの反論があり、ああまた自分がやってしまった、という後悔とか懺悔の気持ちが生じたので、まあいったん落ち着こうや、と促してから、あらためて話し合いを持った。子の方にも自我は当然あり、ロジックも身についてきた。外での経験も積んできているので、親に対して「あんたの言うこともおかしいよ」と指摘するくらいの考えもあるのだろう。で、聞いた。こちらの考えも改めて伝え、では今後どうすればいいか、ということも意見交換した。

僕は「叱る」ことと「怒る」こととの区別はしているつもりで、(家庭内で決めた)やるべきことをやらなかったら叱るし、こちらを舐めた態度をとられたときには怒る。ということも伝えた。手の内をさらすみたいになってしまったけれど、叱るとか怒るとかで親の威厳が保たれるとも考えていないから、それは構わない。威厳? そんなものは持ってない気もする。その、子供たちとの対話のなかでも「こう言われても困るだろうけど、こっちも親をやるのは初めてだから何もかも手探りです」とも言ってしまった。人によってはそんなの責任放棄じゃないか、と捉えるかもしれない。否定できない。でも僕は、もう、自分の子とはそれくらいの関係でいきたいと思う。

もう叱りたくない。注意するくらいのところでとどめておきたい。

子供なんてそんなもんだよ、という言説も見聞きする。思春期なんだからそれくらい、とも。あるいは子供を信じてあげれば、とか。あ、いや、いいです、すみません、愚痴を言いたいわけじゃない。ちゃんと自分で考えて向き合いたいというだけのことで、だけどきっといつまでも「駄目な親ですまねえ」と思い続ける人生なのもわかってる。

ところで「すまねえ、寝ます」という回文が大好きです。

@metayuki
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