映画『ベイビー・ブローカー』でエイミー・マンの「wise up」という曲が流れる。ペ・ドゥナ演じる刑事が車中で聴きながら、その曲が流れる映画の話を語る。その映画は、おそらく、ポール・トーマス・アンダーソンの『マグノリア』だろう。
好きな映画を聞かれたら、僕は『マグノリア』と答える。いくつも理由はあって、エイミー・マンの音楽も重要なポイントだ。映画の主題歌でもあろう「save me」のMVには、劇中の登場人物たちとともにエイミー・マンその人が登場している。だからというのではないけれど、彼女の音楽も群像劇を担う一人なのではないかと思っている。
話はかわるけれど、小学5年生のころに教室で裁判が行われた。裁判、と書いてはみたものの、実際はそんなものではなく、子供たちの稚拙で粗暴なリンチでしかなかった。女子ふたりが何か些細なことで他の子を傷つけた。それが帰りの会で議題となり、問題の女子ふたりの説明はクラスの子たちを納得させられなかった。クラス全体に迷惑をかけたわけでもないのに、女子ふたりの責任を追及する声がどんどん熱を帯びていった。僕も彼女たちを非難する側にいて、ちゃんと説明しろ、というようなことを口にしていた。担任も一部始終を見ていたのだけれど、止めるとか仲裁するとかいった対応はなく、子供たちが納得いくまでやらせる方針をとっていたようだ。帰りの会の時間は長引き、ようやく担任が口を挟んだのは、用事のある人もいるだろうから、この話し合いを続けるのであれば残れる人だけでやりましょう、という提案だった。僕らは興奮状態にあり、ここまできてきちんとした説明を聞かずに帰れるか、と息巻いていた。
いやもうひどい話だ。自分で思い返して、恥ずかしさと苛立ちと申し訳なさでいっぱいになる。僕の側に正しさなんて砂粒ほどもなかった。そもそも関係のない問題だった。女の子同士の些細なすれちがいが発端で、なぜそれをクラス全体の重要な問題かのように扱ったのか。
この手の、学級裁判めいたエピソードはあちこちで見聞きしてきた。だいたいは、後悔しているという懺悔か、それか、やられた側の告発になっていて、幼い正義の暴走、という枠組みで整理できそうなのだけれど、そこにはもうひとつの属性があって、つまり、そんなことがあったとは思っていない、おぼえてもいない人の存在だ。
後悔している自分はマシだ、なんてことは絶対に言えない。大人になってからも似た場面にはいくらでも遭遇した。おまえはどっちにつくんだ、おまえはどっちの味方なんだ。そう迫られたことも何度かある。そうじゃないだろ、と疑問視しながらも、立場的に言い出せないことも多かった。これからもそれはそうだろう。自分が正しかったことなんて、あると思えない。知らずにどちらかに加担して、問題が起きていたことすら知らない、おぼえていない、ということがどれだけあったか。そもそも気づいていなければ、数えようもない。
昨年あたりから、ネット、わけてもSNSからの離脱みたいな話がトピックとして目につくようになった。TwitterからXになり、仕様変更に伴って言葉の使われ方が変わってきた、それも要因のひとつだろう。罵倒語がいつも「死ね」という親のもとで育てば、子は同じ言葉で誰彼を責めるようになる。それは極端な例えかもしれないけれど、でも、そういうことだ。
言葉はひとたび外に出されたなら、ひとつの実例になる。こんな使われ方もする、という事実として積み上がっていき、やがて、みんながこんな使い方をしている、という大渦になっていく。どこもかしこも教室裁判の真っ最中みたいだ。
賢しらなことを書き連ねている。よくない。こんなの自分ひとりの胸にしまっておけばいいことなのだとも思う。思うけど、「wise up」を聴き返して、こうなった。ひさしぶりに小学生のときのことを思い出して、うなだれた。「このまま帰れるか」と言ったのは、僕だ。ドラマの登場人物でも気取ったふうに言い放った自分が恥ずかしい。そして、問題となっていた女子ふたりのうちひとりは、近所に住む幼馴染だった。
ほかの人がどうかはわからないけれど、僕は正しさとかやさしさを心がけるよりも、「恥ずべき私」を隣に座らせておくほうが、多少は善い人間になれる。