入院通学

metayuki
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姪が出演するミュージカルを観てきた。病院を主な舞台にした作品で、自分がちょっと変わった入院生活を送った日々のことを思い出した。

ドラクエ5が発売されたころなので、1992年9月、僕は高校2年生だった。アレルギーの体質改善を目的とした食事療法を実践するため、1日3食を病院で用意してもらうことになり、かつ、ハウスダスト対策もあってか、じゃあ入院しましょうということになった。とはいえ体はいたって健康なので、病院から通学してよろしい、という運びになり、およそ1ヶ月にわたって病院から高校へ通った。部活も普通に続けた。体育の授業はすべて見学となり、昼食は病院が用意してくれる弁当を持参した。

体育を見学するのは、体力が著しく落ちているから、という理由だった。なにしろ食事療法というのが、動物性タンパク質を一切排除するというものだったので、そりゃ運動に向かない体にもなるだろう。お米も食べず、主食はアワとかヒエとか。とても現代社会を生きているとはいえない献立だった。アワとかヒエとか教科書で読んだことはあるけど、現存するんですね、化石とかじゃないんですね、と男子高校生としては思った。

弁当に持たされる品もヒエのおむすびにりんご1玉とかで、周りの友人たちにしてみれば体育を見学というだけでも「どうした?」という印象なのに、見るからにおいしくなさそうなおにぎりをもさもさと暗い表情で食べているのだから、「おまえ大丈夫か?」と驚かれてしまう。体質改善を目指して入院しているのだと説明しても、なかなか信じてもらえない。幽霊が、「俺じつは生きてるんだよ」とのたまっているようなものだ、教室に座って「俺、今、入院してるんだ」と伝えるのは。

平日は朝から課外授業があり、それが確か7時半とかにスタートする。病院から学校まで自転車で片道40分くらいだっただろうか。しかも僕の通っていた高校は山の上に位置していた。普段の体育の授業よりも毎日の登校のほうがよほど体力を消耗するのに、登校は見学で終わらすわけにもいかない。で、病院の朝食はおそらく午前8時とかに用意されるのが普通で、午前6時半くらいに食べ始めないと間に合わない僕の朝食は、地下の調理室そばにある狭い部屋に用意されることになった。

病院地下は工場を思わせる場所で、薄暗く、配管がごちゃごちゃと天井にひしめきあっていて、早朝は調理やら洗濯やらなにやらで、蒸気が吹き出すような音がそこここから聞こえてきた。ろくでもないことを書くけど、ホラー映画の撮影に向いてる。

スマホもなにもない、携帯できる楽しみといえば文庫本くらいで、だけど朝から食事をとりながら読書するなんて気分になれず、そもそも僕のために用意された食事はどうやったって「楽しむ」気分にはさせてくれない代物だから、じめじめした気分で食べてしまうしかない。

朝食の横にはお昼ごはん用のヒエおにぎりがアルミホイルに包まれてあり、その隣にりんご1玉が用意されてあった。

平日は部活を終えてから病院に帰ってきた。到着はだいたい午後8時ごろで、病院の夕飯の時間はとっくのとうに過ぎてしまっている。僕のぶんの夕飯はとっておいてあるものの、完膚なきまでに冷えてしまっていて、ただでさえ極薄味なのに、冷えてしまうとさらに味気なかった。

一週間と待たずに、「お弁当はりんごだけでいいです」とお願いして、ヒエおにぎりは無しにしてもらった。毎日教室でりんごをかじる男子高校生というのも、奇異の目で見られたものだ。でも、このころ、りんごは本当に僕を助けてくれる存在だった。当時は、りんごしかまともな食事がない、と崇めていたくらいだ。

そう、果物だけじゃなく果汁100%ジュースも摂取が認められていたので、これも僕にとっては生命線となった。部活を終え、日が暮れた道を帰る。病院の近くにファミマがあって、そこで果汁100%のみかんジュースを買うのが日課になった。

病院の人たちには感謝している。僕が通学するためにいろいろと融通してくれて、いくつかのルールを曲げてもいただいた。親にも感謝している。健康な高校2年生の息子に1ヶ月の入院と、病院からの通学をさせてしまった、と思ったに違いない。当時はそこまで想像する余裕もなかったけれど、親としてそれは苦渋の決断であり、やはり辛い1ヶ月だったろうと思う。りんごと果物ジュースくらいで幸せを味わえた僕は、のんきだった。若さとは、自分の感覚にしか関心を持てない時代のことである、と書いたのは僕だ。ひょっとしてどこかで読んだか聞いたかしたのかもしれないけど。

同じ病室に入院されていた大人たちも、早朝からどたどたと出かけていって消灯時間も近くになって戻ってくる僕を、おかしな存在と見ていただろう。あるいは羨ましがられていただろう。元気に出かけていくのだから。行ってらっしゃい、おかえりなさい。そんな言葉をかけてもらうこともあった。僕は、ちゃんとこたえられていただろうか。自信がない。

体質改善については、期待されたような結果は得られなかった。アトピーがなおるかもしれないという淡い思いは、次第にもっと淡くなって、最後には見えなくなった。小学校低学年のころに、二十歳までになおらなかったら一生つきあうことになるでしょう、と主治医に言われた。これが僕にとっては宣告として刻まれた。高校時代、あれこれ文句を垂れながらも、食事制限をきちんと守ったのには、そういう理由があった。やろうと思えば学校への行き帰りでの買い食いや、友人たちが食べているお菓子なんかをわけてもらうことだってできたのに、クソ真面目に一切やらなかった。アトピーは、軽くなったりしなかった。

生きる意味を問うてみたりはしなかったものの、まあ、このまま生きていくのは辛いなという気持ちは常にあった。二十歳を迎えるころに、その辛さはピークを迎え、大学生活の後半は生涯をこの皮膚で生きていくことをどう受け止めればいいのか、そればかり悩んでいた。

ひとりぐらしのときにまともな料理をつくらず、焼き芋やおにぎりで済ませていたのは、若者らしいズボラさだけが理由ではないのだと、高校時代の変わった入院を重ねて考えると、思い知らされる。

@metayuki
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