わりと混んだ地下鉄に乗っていたら、2歳くらいの男の子がおかあさんにむかってしきりに「抱っこして!抱っこして!」と叫んでいて、だんだんと涙声になっていった。おかあさんとしても抱っこできるならしてあげたいところだろうけれど、混んだ車内で抱っこして、万が一にも急ブレーキがかかったりしたら、と想像したのだろう。「あぶないから駄目」と抑えた声で諭してみるのだけれど、子供にそんな理屈がとどくはずもなく、男の子はいっそう激しく「抱っこして!」と連呼した。次の駅に停まり、母子のそばの席がひとつあいた。おかあさんは子供に「すわろう」と促したのだけれど「抱っこ!」といって聞かない。おかあさんのほうが座り、そして子供を膝の上に乗せたのだけれど、それでもまだ抱っこしてほしい気持ちはおさまらず、涙まじりに「抱っこしたい!抱っこしたい!」と叫んでいた。おお、能動態と受動態の違いをわかっておらぬ幼子よ、とそばに立っていた僕はおとなげないことを思いながら、かわいいなあ、と微笑ましくも思っていた。
僕も、子供がちいさいころには抱っこしていた。抱っこ紐もずいぶん活用したし、せがまれれば極力応えるようにしていたつもりだ。とはいえ、べつにそれを声高に主張するつもりもない。僕は育児をしているという気持ちを極力抱かないようにしてきた。そんなことを思い始めたら慢心するとわかっていた。自分はそういう人間だ。おまえは育児なんてできていない。常々そう考えていた。実際、できていないかもしれない。できてる部分もあったろうけれど、足りていたなんてぜんぜん思わなかった。いまもそうだ。
子供がある程度おおきくなってからも、ハグして、と言われることがたまにあった。僕はどうにもそれが苦手で、いやごめん、俺は無理、といって妻にその役割を任せてきた。役割、という言葉は不適切かもしれない。それは役割なんてものじゃなく、ただ、人と人との結びつき方のひとつであって、できるならやったほうがいいのだろう。まあ、でも、できないものはできない。
ハグの有用性を知らずに育ったので、勘弁してほしい。というのは言い訳に過ぎないだろうか。
僕だって幼いころには親に抱っこしてもらい、おんぶしてもらい、ぎゅーってして、という台詞は語彙になくて口にしたこともなかっただろうけれど、でも、いわゆるハグのような行為は、僕の親だってしてくれていただろう。
ああ、そうだそうだ、思い出した。僕は保育園児のころに二階建ての家に暮らすようになり、自分の部屋を二階にあてがわれた。一度、一階のリビングで寝てしまったときに父が僕を抱っこして二階まで運んでくれた。途中で目を覚ました僕は、父に運ばれるのが特別に嬉しいことだと理解して、それから何度か、リビングで寝たふりを決め込んだものだ。でも、おぼえているのは最初の一度だけだ。
育児してない意識を持つのと同じように、子供にはいつ嫌われるかわからないという考えも頭に常駐させている。ただの臆病者なのだと思う。こちらが溺愛しても、いずれ離れていくのだから、だったら最初から距離をおいてしまえ、というスタンスなのだ。冷たくする、というのとは違う。愛情をかけない、わけでもない。でもな、愛情なんてそれこそ能動態と受動態の区別ができない代物だ。嫌われることに怯えているのではなくて、僕がいやなのは、「こんなに愛してやったのに」と考えてしまうことだ。我が子に対してそんな気持ちで接するのは避けたい。それもまた、慢心したくないということかもしれない。
大学時代、英語の授業を担当していた女性の先生は娘ととても仲良しであることを自慢していて、授業でも「LOVE」について学ぶ内容だったりしたのだけれど、いまでもよくおぼえているのは「子供に対する愛情は出し惜しみしてはいけません。愛情を注げば注いだだけ、子供は愛を返してくれるのです」という教えだ。ははは。とてもじゃないが、その教えは信じられない。親にできるのは勝手に愛することだけだと思う。子供がその愛をどう受け止めるかは、子供次第だ。あ、嘘だ。子供次第ってことはない。親の育て方、考え方、そういったものも要因となってくる。
たまに、ごくごくたまに、思いきってハグしてみることがある。浅ましいな、とあとで反省する。いつか言いそうな気がする。「俺だってハグくらいしたことある」と。その釈明のための保険としてハグなんかしてるんじゃないか。そんなつもりはないのだけれど、でもな、先のことはわからない。やだなあ。子供とのあいだにある愛情を物差しではかるような真似もしたくないけど、なにかの問題として愛が浮上してきたときには他の親子との比較の問題にもなろうから、そうなるとサイズ感とか深さとかで比べるんでしょう? おお、だったら親子愛なんてなくっていいよ、と言い切ってしまえるほどの度胸もない。
そんなこと考えずに子供との時間を慈しめばそれでよかろうによお。