生徒じゃない人から、ひさしぶりに「中山先生」と呼ばれた。zoom打ち合わせでのできごとで、以前におなじ会社に勤めていた年上の方に、そう呼ばれたのだ。二十年来のつきあいになるけれど、わりと最初のころから「中山先生」と呼ばれていたように思う。
子供のころから、ほとんど仇名をつけられることがなかった。中山君。中山。小学校低学年のころには「ナカ」と呼ばれたりもしたけれど、いつからかそれも消えた。「ナカ」にしたところで仇名と呼べるほどの代物ではない。苗字を切り詰めただけだ。
中高生のころにも、冗談みたいに「中山先生」と呼ばれることがあり、これが仇名といえばそうなのかもしれないけれど、でも、根拠のある呼び名ではなかった。どこから発生したのかもわからない。先生の物真似なんてほとんどしなかったし、飛び抜けて学問に秀でていたわけでもない。社会人になって最初の勤務先でいつからか「中山先生」と呼ばれるようになった。転職した先でも、いつのまにか「中山先生」と呼ばれていた。自分から「私のことは『先生』をつけて呼びたまえ」とお願いしたことも、もちろんない。先生業をやったこともなかった。
となると、僕の佇まいが「先生」ぽい、ということになる。実際、そんな意見を聞いたこともある。しかし「先生ぽさ」とはなにか、まるでわからない。
以前にも書いたように中学生のころからTMネットワークが好きで、小室哲哉が「小室先生」と呼ばれていたことから、僕も先生と呼ばれるのは嬉しかった。だからわざわざ「やめてくださいよ」なんて言わなかった。
いま、曲がりなりにも先生というか講師というか、そういった立場につかせてもらうことがあり、「なんとなく」ではなくて「中山先生」と呼ばれることが増えたわけだけれども、仕事関係の人に呼ばれるのと違って、本来の意味で「先生」と呼ばれることにはぜんぜん慣れない。こっぱずかしくなる。変なの。
仇名の話に戻る。幼いころは、仇名のない人間はつまらない人間なのではないかと疑っていた。それは言い過ぎかもしれない。仇名をつけられる人間は面白い人間なのだ、というほうが適当かもしれない。なので、ちょっと憧れはあった。海外の映画なんかを観ていると「自分のことは○○と呼んで」という場面があって、いいな、と、うっとりした。
あ、あったあった、ニックネーム。高校時代にネイティブの先生がいらっしゃって、僕のことを「トミー」と呼んでくれたので、しばらく友人たちからもトミーと呼ばれた。これは嬉しかった。
熊本市と姉妹都市であったテキサス州サンアントニオから来ていた先生で、もじゃもじゃの頭に胸毛も立派、合宿ではアコギを掻き鳴らすワイルドっぷり。長髪のメル・ギブソンみたいだった。名前は思い出せないのだが、その先生が自己紹介で「サンアントニオから来ました」と英語で言ったとき、「サンアントニオ」が「青年トリオ」に聞こえた僕は、胸の内でずっとその先生を「青年トリオ」と呼んでいた。
「トミー」というニックネームを授けてくれた恩人に、そんなひどいあだなをつけるなんて、俺のバカ、ほんとバカ。