我妻俊樹さんと平岡直子さん、ふたりの歌人が対談形式で短歌について語り合う『起きられない朝のための短歌入門』(書肆侃侃房)という本を読みながら、歌人の語る言葉は日常会話であっても単語のチョイスがいちいちおもしろいなと、ひれ伏す心地になった。これを「日常会話」と断定していいのかわからないし、実際の会話はもうすこし違ったろうとは思うものの、でも、自分の意見をできるだけ本心に近いところで言葉にしようと試みるならば、紙上で再現されるものに近い言葉遣いになるほかないのではないか。つまり、書き言葉のように話す。推敲を随時おこないながら声に出す。いや、難しいだろ。
先日、とある新聞社の記者がとある事件についての取材記事で、取材対象者が実際には言っていないことを、さも本人が発言したかのように書いて、問題になっていた。そういったことは、まま、ある。良し悪しについては、もちろん「悪し」のほうが大きいんだけど、じゃあ取材時の言葉をそのまま使えるかというと、そうもいかないことがあるのだ。
人の話し言葉はリアルタイムで生成されるだけでなく、出たとこ勝負でしかないので、書き言葉のように一貫性を持たせるのは難しい。だから国会答弁に限らず、公的な場での発言には事前に原稿を用意する習いなのだろう。
僕もたまに取材仕事を担当することがあり、それらを記事の体裁にまとめるにあたっては、取材対象者の発言を切り貼りしていく。最初から最後までそのまんま文章へ、なんてことはありえない。
音声データがあるときには、まずそれらを文字起こしして(文字起こしは本当にラクになった)、話題ごとに順番を入れ替える。会話のなかではあっちこっちに話が飛ぶので、まずはカテゴリ分けする感じ。つぎに意味の足りない言葉とか重複なんかを削り、発言の筋道をつくりながら、取材対象者の意図からずれないかを確認する。そうやって一歩ずつ一歩ずつ追い込んでいって、読んでストレスなく意味が通じる記事に仕上げていく。
そうすると、たとえば冒頭近くで発言した言葉が、最後のまとめに持ってこられたりする。これは捏造ではなく編集、ではあるけれど、発言者が確認して「この言葉は冒頭に持っていって」と指示されれば、まあ、従う。まあ、ってことはないか。そんな具体的な指示があれば、そこから組み直すしかない。
コピーライターとして駆け出しだったころは、「実際の発言」を「書き言葉に移植する」のが難しかった。声で発せられた言葉は重複だらけで矛盾も多く、一貫性もない。目隠ししてスーパーに入店し、買い物リストに記した品を手触りだけで選んで買ってこい、と命じられた場面を想像してほしい。みんな言いたいことは(買い物リストとして)頭にあるのに、それを的確にカゴに入れていくことはできないのだ。形や質感でそれらしいものをカゴに入れるしかない。ライターの仕事は、そのカゴの中身を確かめて、このひとがつくりたかった料理を想像し、レシピを書いていく、そんな感じがする。
僕が記事のライティングを担当するのは、月に数回程度だけれど、たとえばこれが毎日の仕事だったら、それも複数本を毎日の締切にあわせて量産していかなくてはならないとしたら、どこまでが編集の領分なのかを見誤らないなんて自信は持てない。実際にはなかった発言を差し込むことはしない、と思いたいけれど、どうだろう。結論ありきで書いてしまえば、そんな落とし穴にはまることもあるだろう。
粗製乱造とはよくいったもので、世の中の過ちの大半は時間の無さに起因するのかもしれない。ゆっくり考え、ゆっくり話す、ともいかないんだよな。