100

metayuki
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これで100本目のエントリー。好きに書いてるだけなので節目というものでもないけど、節目な気分。

100、といえば、100s(と書いて「ひゃくしき」と読む)の「ももとせ」という曲が好きで、だいたい春の空気が感じられる時期に聴くので、もうそろそろヘビロテの季節がめぐってくる。

100sは中村一義が組んでいたバンドで、とにかくもう大好きだった。両国国技館で開催されたライブもすごく楽しかった。残念ながら活動期間はあまり長くなかったけれど、名曲しかない。

「ももとせ」は、おそらく、中村一義が祖父を思って書いた曲だと僕は受け止めていて、だからこの曲を聴くと僕も自動的に祖父を思い出す。父方も、母方も、いっしょになって蘇ってくる。

父方の祖父は小柄で、ひょうきんで、短気だった。ちいさな車に乗っていて、何度か、パチンコ屋へ連れていかれたことがある。夏休みにはその車で海に連れていってくれたり、夜明け近くにクワガタ採りに連れていってくれたこともあった。酔っ払うと陽気さに拍車がかかって、声が甲高くなった。僕の父も似た傾向があって、僕自身も酔っ払うと声が高くなる気がする。血は争えない。

これは姉から聞いたエピソードだけれど、父方の祖父が亡くなるすこし前、入院先で「おじいちゃん、いま何歳だっけ?」と質問したときに「108.6歳」と答えたそうだ。祖父は86歳だった。100を超えた年齢を答えたこともおかしかったし、0.6が付け足されているのもおかしかった。8月6日に息を引き取ったあとで「もしかしてあの8.6は自分が亡くなる日を予言していたのでは」と、一瞬だけいとこたちとざわついたけれど、それにしたって「100」が意味不明なので、まあ、ただの偶然でしょ、ということで落ち着いた。

母方の祖父は厳格な人物で、あまり冗談を言う姿を見たこともなかった。父方の祖父とはずいぶんと対象的な人物だと、幼い孫から見てもそんな印象が強かった。夏休みに母方の祖父母の家に滞在しているあいだ、何度か、自転車のうしろに乗せてもらって、近くの書店に連れていってもらったことがある。祖父もよく本を読む人だったように記憶している。

祖父が亡くなるすこし前、鹿児島の入院先を訪ねたときには、祖父はもう言葉をほとんど発することができなかった。ベッドの上で身動きもとれないままの祖父の手を握ったのは、自発的だったか、誰かに促されてのことだったか。子供のころに手を引かれたこともあったに違いないのだけれど、そんな記憶はなくて、厳しい人だったから「男なら自分で歩け」という方針だったのかもしれない。祖父の手は皮膚が固く、ひやりとして、僕はおそるおそる自分の手に力を込めた。

父方、母方、それぞれの祖母についての思い出もいろいろとあるものの、自分という存在を(おおげさながら)考えるとき、対照的な祖父たちを僕は思い浮かべる。二人の人生はそれぞれに波乱万丈で、大きくは戦争が関わっているのだけれど、歩んだ道はまるで異なっていて、そのふたつの道が自分という命として交わったと、そんなイメージがある。

誰だってそうなのだ。誰の人生もぜんぜん違っていて、思いもかけないところで撚り合わされて、その繰り返しの先端に自分がいる。

@metayuki
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