季節のせい

metayuki
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肌が荒れているので、そろそろ春が来る。季節の変わり目はいつもこうで、憂鬱になる。顔が赤らみ、全身がひりひりと痛む。自分が廃棄寸前の雑巾になった気がする。などと呪詛めいたことを言い募ってもいいことなんかなにもない。

いま読んでいる小説のおかげもあって、このところ「信仰」について考えている。僕は特段の信仰を持たないので、信仰についてあれこれ語るのもおこがましい。大学時代にはチャペルの時間が設けられており、前期と後期で一回ずつは出席しなくてはならなかった。一回も講話を聞かないと自宅に赤紙が送られてくるという噂だった。赤紙を受け取った記憶はないし、自分の小心者っぷりを思えば、きちんと話を聞きにいったのだろう。

必修科目に「キリスト教学」があって、その講義を聞くのはわりに好きだった。なんの話題だったか、あるとき、教授の意見に「それは違うのでは」と思って、意見を述べたことがある。すると、「きみ、あとで私の研究室にいらっしゃい」と教授に誘われた。どうやら気に入られたらしかった。

さほど過激な学生ではなかったのだけれど、疑問に感じたことは臆さず口に出すことがあった。なんでこんな反抗的な態度をとったのに招かれるのかと、当時は不思議だったけれど、教える側にまわってみるとよくわかる。疑問をぶつけてくる人は、自分の考えを持った人だという単純なことだ。

信仰という言葉から、すこし前に見たドキュメンタリー番組を思い出した。UFOをめぐるもので、東日本大震災のあとでUFO目撃が増えたといった話題も含まれていた。信じるか信じないかはあなた次第、というわけではないものの、UFOを希求するような心持ちはわかる気がした。いや、これもまたおこがましい物言いかもしれない。なにかを強く求める気持ちというのは、わかるとかわからないとかいった物差しとはべつのところにあるものだろう。わかってほしいとか、そういうことでもなさそうだ。

批判の意図はまったくなくて、ごくあたりまえの光景として、学生の多くは自分の意見を教師や教授にぶつけたりしない。授業や講義は議論の場とは違うからだ。教える側もそれを承知で、カリキュラムに沿って伝えるべきことを伝えることに注力する。だからこそ、質問されたり、反論をぶつけられたりすると、うれしくなる。停滞していた気持ちを揺さぶられて、目が覚めたような心地になる。異論反論なんでもいい。規定演技のような授業とは別の言葉を持ち込んでもらえるのは、うれしい。それだけのことであって、だれかに理解してほしいというのでもない。もっとどんどん意見を出してくれよ、ということでもない。ごくたまに、そういう機会がめぐってくるから、うれしいのだし、ありがたいと感じる。

UFOだって、呼べばかならず来てくれる、となれば、ありがたみも薄れるだろう。来てくださいと祈る気持ちだって雑になっていくだろう。

季節の変わり目の肌荒れは、季節の変わり目に生じる現象だと思っていたけれど、近年は「それって花粉じゃない? 花粉の時期って肌荒れするんだよね」と言われることも増えて、幽霊の正体見たりって感じになってきた。衣服から露出している部位だけなら花粉説もわかるけど、全身だから花粉じゃないんだよなと、僕は思いたがっている。「季節の変わり目になると毎年これなんだよな」と信じていたい。そのほうが受け入れやすい。

そしてこうも思う。UFOでも、信仰でも、魂でも、神様でも、受け入れやすい理屈を構えてしまうのは、悲しみのせいだと。くっそ悲しいけど、だれにも理解なんかされたくない。そう思うときに人は人間以外の理屈をこしらえる。そんな気がする。

@metayuki
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