忘れ物 (創作)

metayuki
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上の部屋の足音を気にすることはなかった。マンション暮らしなら、そのくらいのことはあるだろうし、いかにもちいさな子の走る音だったから目くじらを立てる気にもなれなかった。

暮らしているうちに、足音がおおきくなっていった。子供が成長しているのだろう。そこに新しい足音が加わった。犬か猫を飼いはじめたようだ。

我が家も三階に位置しており、大型の犬と暮らしているので、下の階の住人に足音を聞かせているに違いない。ペット可物件なので、みんな、足音や吠え声に寛容なはずだ。そう思っていた。

何年も聞いていると足音で感情を読み取れる気がしてきた。この場合、聞き取れる、というほうが正しいのかもしれない。楽しそうなとき、落ち込んでいるとき、いらだっているとき。姿が見えないぶん、感情は明瞭になった。

ふと気づくと、上階の足音は子供のそれだけになっていた。犬か猫か(おそらく犬だと私は踏んでいた)の足音が聞こえなくなった。

それからしばらくして、子供の足音がなかなかやまなくなった。昼も夜もかまわず室内をうろうろしている。とっくに学校へ通っている年齢のはずで、それが日中にもほとんど止まることなく歩きまわっている。不登校なのかもしれない。なにか悩むような、探すような、おなじところをぐるぐると動いて、聞いているこちらが不安になってくるほどだった。数日そんなことが続いて、ある真夜中にトイレへ起きたときにも足音が聞こえた。

さすがにこれは異常ではないかと思い、事件性もあると判断した私は、管理会社へ苦情として連絡を入れた。上の部屋から一日中、足音が聞こえてきてうるさい、と。管理会社が調べに行ってくれれば、事件だったら明るみになるだろうし、そうでなかったとしても足音に気をつけてくれるだろう。

連絡したその日のうちに折り返しがあった。

「上の方、先日引っ越されまして、だけど足音だけ忘れていかれたらしいんですよ。さっきこちらで回収しておきましたから、もう大丈夫なはずです。ご迷惑をおかけしました」

たしかに足音は消えた。静けさを取り戻した夜、あの足音は悲しくて、おびえていて、不安でたまらなかったのだろうと考えた。耳の中に足音が蘇ってきた。普段はぜったいにしないのだが、その晩、私は私の犬をベッドに迎えていっしょに眠った。

@metayuki
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