ほぼ一日座って仕事に費やしていたので、夕方になりすこし歩かねばどうにもならないという気分に襲われ、妻を誘って外に出た。まだ明るくはあったけれど、普段なら夕飯の支度を始める頃合いだった。子供たちに申し訳ないと思いつつ、帰ったらすぐに料理するから、と言い残して出た。
しかし考えるのは子供のことで、漢字の宿題をこなすためのノートがそろそろ切れそうだと言われていたことを妻が思い出し、だったらイオンで買おうと話がまとまって、交通量の多い大通りを渡って、また渡って、歩いていった。学校帰りの自転車たちも多く、小さい子と手を繋いでもう一方の手には荷物でいっぱいのマイバッグをさげた母親ともすれ違った。
文具売場でノートを買い、ついでになにか惣菜を買って帰ろうか、ということになった。冷蔵庫に豚肉があるのはわかっていたので、それを焼く予定だった。それだけでは少ないかもしれないので、すこし買い足すくらいのつもりで立ち寄ったのだけれど、夕刻の値引きがされていることもあり、当初の「つもり」よりもちょっと多めに買ってしまった。
帰宅して、買ってきたものと冷蔵庫の残り物を出したあたりでテーブルが埋まっていたのだけれど、僕はなにも考えず、焼くつもりでいた豚肉に塩を振った。あれ、テーブルもう埋まってんな、と気づいたのは塩振りのあとだったから、もう焼いちゃえ、と決心した。すると子供がやってきて、「え、なに今日、豪華じゃん」と料理を見て驚いた。
疲れていると味が濃くなる、というのはよくあることだ。忙しいときに限って料理をつくりすぎる、というのも、ままある。惣菜でも似たことが起こるのかと、知らなくてもいいようなことを知った。
この感覚を言葉で表すのは、難しい。ここまで書いてみたけれど、自分の感じたことの核のところは言えてない気がする。
イオンでの時間に話を戻す。
値引きの始まった惣菜コーナーには、共働き風の夫婦(かどうかはわからないけど、男女の組み合わせ)がちらほらといた。それよりも多かったのが、単身の高齢者だ。ひとつ、ふたつ買えば一食まかなえるといった雰囲気で、今夜の食事を吟味している。もしかすると今夜だけじゃなく、明日の朝とか昼とかも値引きの品でいいのかもしれない。
大学生のころ、ひとりぐらししていた時期に僕はよく西新のダイエーを利用していて、値引きされたコロッケがあればそれを買って帰った。80円とかそのくらいの値段で、まあまあ大きめなサイズのコロッケが買えた。という話は前にも書いたかもしれない。
自宅で冷凍しておいた白ご飯を解凍して、大判の海苔をつかって、コロッケおにぎりにして食べた。それでじゅうぶんに夕飯となった。
ひとりのときには、買いすぎる、ということはなかった。量を見誤るのは、自分のためだけじゃないからだ。そう思うと、量を間違うのも幸せなのかもしれない、などと安直な結論で終わろうとしたけれど、「かもしれない」ではないだろう。幸せなのだ。なのだけど、なんかそれだけってこともない。
またノート、ぼやきながらも探す親。
大量に残ったおかずという惚気。
うん、言葉を切り詰めたほうが、言いたいことに近づける気がする。短歌書く人たちってすごいな。自分の書いた言葉は短いだけで、やっぱ散文。
一定量の漢字を書けば親がまたノートを買いに動きます
将来を考えるより先に我が子らよ来週なにがいるか教えて
愚痴っぽいな。言葉足らずな愚痴というか。料理を用意しすぎた気分についてももうちょっと考えたいところだけど、もう今日は文字数も普段よりだいぶ多いようだし、あなた疲れてるのよ、ってことで閉店。