興味を持ったことを確かめたい、ということに、どうやらそれなりにこだわりがあるようで、それゆえに大人になってからよく言われた「(世の中)そんなもんだよ」と言われる事象・事例について、どうにも「飲み込めなくて」いつまでもあれこれ考えてしまうことは、初老と言われる年齢にまで到達してなおよくある。
とはいえそんなに物事を知っているわけではないので、そうやって「ひっかかった」ことについてあれこれ考えても、答えらしき糸口さえ見出せないまま、その「飲み込めなさ」もフェードアウトして、次の興味関心に移ろっていくばかりを繰り返し、自身の来し方を振り返って、ひっかかる割には何の答えらしきものすら見出せてこなかったなあと、かなり自嘲的にもなる。
そういう意味では、いろんなモノ・コトに引っかかっていた当時に、もっといろんな本を読んでおけばよかったなと思ったりもするが、それでも最近になって、ひっかかることに対して、「ああ、そういうことだったのか」とひとり合点することも多少増えてきた。
例えば、中学生の頃はいじめられていたが、その時に事態を緩和するための対処法として取っていた手段が、いじめっ子たちに過剰に同調しようとしていたんだな、という理解に及んだ瞬間があった。それはもう中学卒業から35年も過ぎた頃だったが、当時はなんでいじめられるのかがどうしても理解できず、事態を荒立てないためにとった手段であったことについて、「自分自身を抑制して相手に合わせる無理をしていたんだな」という理解に、ふと到達したのだ。
当時は周りから「(いじめとは)そんなもんだよ、やり過ごせばいつか終わるよ」という趣旨の助言をもらっていたが、そうやってやり過ごすことがどうしてもできず、いじめっ子のひとりとして大喧嘩をしていじめが唐突に終わり、ようやく平安が訪れた後もずっとその考えが続いていた。それが35年続いて、理解する瞬間が訪れるのだから、ひっかかっているにも程があると自分でも思う。
ただ、そのおかげで、初老となった現在でも、他の人よりはいろいろと引っかかっているようで、ときどき「変なこと考えるね」と、お世辞?半分呆れ半分の「評価」を周りからいただいている。
だから、知り合いや家族とは、例えばドラマやエンタメの話をすると「そんなネガティブな評価をするなんて」みたいな感じで、反発を喰らうことがよくある。
自分としては、引っかかったポイントについて自分の考えを述べているだけなのだが、言われる方としては、楽しんでいるのに「変な評価」をされると興醒めする、ということのようだ。
作品の内容の何に引っかかって何を思ったのか、という話し合いは、以前はスムーズにできていたと思うのだけど、近ごろは、作品の話をするには同調することを前提としないと、話にならないのだろうかとも思う。
ひとりひとり違う人間なんだから、受け止め方も感じ方も全く同じはずはないのだけど、「同調」を入り口にしてしまうと、ひとりひとりが感じた「違い」が言い出せなくなるのではないか。そういう言い出せない「違い」を溜め込むと、精神衛生上とてもよろしくないのではないかとも思う。
自身の過去のいじめの話は、自分自身を抑制して相手に同調しようとしていたことが、事態の解決を妨げていた、という理解に至っている。
同調できないことは誰にだってある。それを自身で認識して、折に触れてそのことを表明することは、自分の拠り所を確かめることに繋がるのではないかと思っていたりする。(了)