グループって、なんだろう。推しのいなくなったグループを箱として推していけるのだろうか。推さなくてもいいんだろうけど、推すことで彼女の愛したグループを支えてあげたい気持ちもある。でも、推しが抜けてがくんとファンが減ったところを事務所に見せつけたい気持ちもある。というか、グループってなんだろう、本当に(こんらん)。推しのいないグループって、推しがいたグループなんだ。もうずっと、今までとこれからの断絶にうじうじしている。
今年の秋から、私が某大好きマン(ファンネーム)ではない可能性が出てきて数日。思うことは、グループへの気持ちだ。今までも考えたことはあるし、オタクは誰しも考えるだろう。これは私の推し云々の話ではない。他のアイドルもそうだし、アイドルでなくてバンドだって、グループでやってるユーチューバーだってそう。グループ活動をしている推しがいるなら、君も仲間だ。
いきものはいっぱいの細胞の集合体で、細胞はぐるぐると死んでは新しく生まれてくる。それでも脳みそも心臓も一個ずつで、顔はみんな違うし、背の高さも違うし、その違いは固有の特徴として引き継がれていく。それはDNAが特徴を保存した情報を基幹部分として引き継いでくれているから。たぶん。
じゃあ、アイドルたちは細胞なのだろうか。バンドメンバーは細胞?あのバンドは作詞も作曲もやってるあのギターボーカルがいれば他のメンバーが入れ替わっても、多分あのバンド。そういうバンドは多い。じゃあ、その基幹メンバーがいればそのバンドのことがずっと好き? それってそのバンドが好きなの、その基幹メンバーだけでもいいってことにならない? そのメンバーってバンドらしさを作るユニークな情報の全てなの? そんなことはない。ドラムが、ベースが、変われば聞く人が聞けば変わっているに違いない。これは、バランスの問題なんだろう。ユニークの程度のバランス。アイドルの場合は、ひとり一人が持つユニークの程度がほぼ均等なので(なんとなくグループを知っている人には、恐らく歌メンだけが認知されている等のユニークの偏りはあると思うが、ファンからすると均等である。恐らくバンドにもそういう面はある)、時間の長さがバランスを特に左右する。なにはともあれ、どこを切り取って見るか、私にとってのその「グループ」の概念がいつからいつまでの、誰がいた時期なのか。それだけのことなんだと思う。だらだらと今日も冗長に述べたが、私は2年前の武道館公演からの推ししか知らない。もちろん、Spotifyは年末のランキングで謎の上位1%になるくらい聞いたし、衣装を知りたくてGoogleで調べた画像をめちゃくちゃ拡大してがびがびのそれを眺めた。そこには知らないメンバーの声が入っているし、知らない子の笑顔が並ぶ。古参のオタクには「〇〇ちゃんの卒業ソングだった」曲が私には「もしかしてペンラのピンク使える曲ってコト?!」だった。今は、ピンクは予科生の色。この2年で、公式ペンラの余ったピンクにも意味が生まれた。グループは、断続しないけどメンバーは断続して入れ替わる。変わらないのはグループの名前とコンセプトだけ。でも、ぐるっとまるごと入れ替わることはなくて、少しずつパーツが入れ替わっていく。ひとつとして同じ形はないパーツたち。毎週、合体が変わるニチアサのロボみたい(変わらない週も多いし、毎週ロボの出ない戦隊モノもある)。その時々の合体、そう思うとやっぱり激アツかも。でも、お気に入りのパーツのないロボか……。
私が好きなのは推しか、グループか、推しのいるグループなのか。たぶん、みんな推しのいるグループだろう。推しのいない、推しのかつていた、そしてこれから推しが見守り、愛で、推していくグループ。グループも好きなんだけど、という葛藤。推しがいないのに遠征はしないでしょ。何色のペンラ振ったらいいのかわかんない。物販、なに買おう。特典会、行かなくなっちゃうよね。推したちは悪くない、オタクがちょっとひとり露頭に迷っているだけ。箱推しじゃなくて、推しもいないなら降りなよと思うでしょう。箱推しじゃないわけじゃないんたよなぁ、これが。なんだ2年ぽっちと思うかもしれないけど、私には最初で最後と決めて漕ぎ出した大海なのだ。3次元の、アイドル。その一回を逃したら「もう一回のない」アイドル(ハイキュー!!観ましたか)。2次元のイケてるメンズばかりを愛でて、薄い本を必死こいて出すことが趣味のオタクが、息して泣いて笑って、人の言葉で傷付いたり感動したりしてる「人間」を推すって覚悟が分かるか。自分の言葉が相手に届く可能性への怯えが分かるか。二次創作だからなんてほざけば許される世界じゃない。二次創作だってなんだってしていいわけでないです、一応。推すって、自分が勝手にしていることで、いつでも辞められると思っていた時期が私にもありました。そんなことはない。そうでもいいけど、そうであれないからこんなことになってる。
なんだかんだ推しを推しながらも、グループのことがちゃんと、とても好きなのだ。推しがいなくても、好きなのだ。堂々巡りをしている言葉から察して欲しい。混乱している。
今まで、推しグループという港には推しという灯台があったわけだ。これから、港は見えてるけどどうやって向かうかね〜と船長ことオタクこと私はおろおろと入江で困っている。港にはなんとなく着けるだろう、だって昼間は見えているから。夜はもうだめだ、見えないから。夜も前を向けたのは推しって灯台がいたから。なんだか全然上手くない例えだけど、要は気持ちはざっくり半分になったし、熱量もざっくり半分になってしまった。嫌いになったのではない、推しと箱で二分していたものの片割れがなくなるってそういうことだ。ライブ、ツアーファイナルとかはやっぱり行きたいよ。でも、何色のTシャツ着たらいいんだ、あ、いや、TシャツはメンカラT以外も売ってるからそれ着ます。推しの歌割り、誰かのところに行っちゃうの、見てられるだろうか。うわ、今初めてこのことに思い至って泣きそう。全然、だめだ。グループから推しの欠如、まだまだ受け止められない。グループが昔の話恋人みたいになっていく。もう吹っ切れているのに(まだ吹っ切る必要はない、8月まで推しはいる)、ふとした瞬間に彼(彼女)を思い出してぎゅうってなるあれ。まだ、別れてないのにな。気が早い。今の恋人が好きでも昔の恋人ってノスタルジックなものなので、たぶん、こういうものだし仕方ない。そう、さみしいのは仕方がない。推せるのか推せないのか、どっちなんだい! という問いの答えは、一旦パスで……。これが今回の結論です、パス。今はパス。でも、推しの卒業したグループがいい別れ方をしたノスタルジー溢れる昔の恋人ポジと判明したので、この冗長な言葉たちは私にとって意味があった。私はラ・ラ・ランドのエンド大好きだから、この解釈に辿り着いて、少し気持ちが良い。極めて陳腐に、雑に、言うとエモい。
推しと推しグループの話をめちゃくちゃ具体的&謎の例え話を話してきたが、推しがグループからいなくなるオタクにはみんな共通するんではないだろうか。隙自語だが、私が推しと出会ったきっかけの作品に、ミナトくんというキャラクターがいる。彼はまさにみんなの帰るところ、灯台ポジションだったが、彼もまた灯台を背に漕ぎ出すと歌うので、推しもグループという港の、緑盤という灯台の守り人の役割を降りて、ひとり素の推しとして海へ出るのだろう。……オタク、すぐに重ね合わせてエモさに浸るのやめたほうがいいよ。とてもしょうもない閑話です。
私は細胞を愛したのか? 細胞たちが作った組織を愛した。そして、私も僭越ながら小さな細胞だった。グループからの推しの喪失は、私という細胞の終わりでもある。私の一大決心の果てのドルオタライフが「今まで」になること。推しの卒業イベントの余波かと思えばこれが、本命かもしれない。意外と辛いな、推しのいないグループを見るの。でも、グループも好きなんだよ。葛藤。葛と言えば最近流行りのくず餅アイス、美味しいですよね。藤と言えば、そろそろ藤棚が染まる頃ですね。ドルオタ、ずっーと葛藤してる。
とりあえず、遠征はしないというルールを破って推しちゃんズのラストライブ、いきます。もう、宿も取った。思い出はソース味になる予定だ。たこ焼きと串カツは絶対に食べる。①はだいぶ私信かつ、大混乱の言いたいことかとっ散らかったものだったが、あれを経て②はテーマを絞ることができた。三千字も書かないと整理できない思考ってタイパ悪いよね。そんなこんなで、ようやっと、ほぼ日記になることができた。本当に推しに届く必要なんてない。
2024.04.24