ゲ謎とゴジラを観た。

mican
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昨日、ゲ謎ことゲゲゲの謎を観て、今日はGODZILLA-1.0を観た。この後、金曜ロードショーでノートルダムの鐘を観る。映画三昧の連休。正直、ちょっと詰めすぎたかなぁと思いつつも、ガンガン浴びるインプットってちょうどいい感じのショック療法になるので個人的には好きです。

で、たまたまゲ謎とゴジラが、ちょうどどちらも戦後の日本が舞台で、色々思考したくなったので書こうかなぁって。きちんと帰結するかはわからないけど、気持ちとしては「令和に描く戦後って感じするよね!」が結論。

本筋のネタバレには大きく触れないと思いますが、舞台や登場人物の設定あたりの大枠はかなり触れると思うので、念のため、ネタバレ注意です。

ゲ謎の主人公の水木もゴジラの主人公の敷島も戦争の「死にたくなかった」「死に損ない」が内地に戻って来ている。ここで感じたことは、やっと「死にたくない」「こんな死は無駄だ」と明確に言える空気になったんだなぁ、ってこと。もちろん、昭和、平成を経て、戦争は悪、特攻も美徳なんかではない、ということは子供の頃から刷り込まれて来たけれども、それはそれとして、映画や小説、ドラマの中で戦争で、特攻で、それを美徳とされて散ってきた人の親族も多くいる中でそれをはっきりと嫌悪すべきものとは書き切れなかったわけで、しかし、この二作品、それを言い切ったな、と。厳密には水木は言い切り、敷島は言い切らない、彼はただの臆病。ただ、その臆病を表に出せるようにはなったんだと思う。その臆病を作中で「これ以上ない恥」と描いても受け手は敷島にも言い分がある、死にたくなくて当然だよとはっきり言わせてもらえる余地が作品にあった気がする。

戦争は社員を自殺に追い込むパワハラのニアリーイコールの存在として語ってもよくなったらしい。もちろん、どちらもそんな軽い話ではなく、どちらにも両者なりの重さと社会の闇がある。戦争≒パワハラ感は、ゲ謎の方にかなり強く出ていて、作中で鍵を握る存在の某Mが戦争中のあの美徳を現代のパワハラへと要素として継承されている構図はカッコつけるなら素晴らしい、オタクらしく言えばめっちゃいい現代風刺になっている。まあ、観た人はみんな感じたと思うけど、それエナドリやねーんって話なんだけど。よく知らないけど、リゲインという飲み物、いつだかのキャッチコピーは「24時間戦えますか」だったらしい、時代感じる。ボディメンテは働くために整えようぜ、みたいな内容だったよね。

水木は駒ではなく、駒を使う側を目指している。あの諦念と自分が汚れることを厭わない感じ、すごく好きです、これはシンプルに好みの話。誰かを差別している描写はなかったと思うけど、水木からは「俺はああはならない」がひしひと感じられる。他者を、というよりもあの日、戦場で見てきた犬死にした仲間が、ずっと脳裏にある、あそこで「誰がお前らの玉砕した勇姿を報告するのか!」と叫ぶ者は誰か、権力者だ、社会的強者。人を駒として見る社会的強者を嫌悪しつつも、弱者として使い捨てられないために強者側へ行きたいというのが水木だった。作中初期の。

これは今でも対して変わらない構図ではある。ただ、こういうひとは意識高い系として絶滅危惧種で、世の経営者はこういう貪欲な戦士をずっとずっと探している。ちゃんと金払ってればブラックじゃないよ、とグレーなベンチャー企業の社長の同胞みたいな、これまた別会社の社長が言っていた。なかなかに黒い言葉だが、稼ぎたくて働きたくて経験を得たい人間は大枚はたいても手に入らないのだから、現代社会はちゃんとそういう人間にお金を払って欲しい。正当な評価を。発展には必要な人材なので。生ぬるい理想を語るならライフワークバランス保ちながら生産性上げたいよね。でも、なにを束にしても、こういう絶滅危惧種の推進力には敵わない。だから、大切に保護して贔屓して、ひとりで突き進めるようにするのが、イマドキの特性を活かした社会だと思う。めちゃくちゃ話が逸れましたが、初めの方の水木は水木で、社会的にはものすごく大切な存在で、パワハラ気質も強要しないで自身に向ける限りそれはストイックと形容できるものだったりするよね、という閑話。もう休題します。

今で言えば当時の「命を懸ける」という概念は睡眠時間や趣味をする時間、つまり「プライベート」を犠牲とすることと同等だろう。髄分なスケールダウンだが、これが平和である。物理的な「命=私」、尊厳としての「私」、アイデンティティとしての「私」。私を社会に明け渡すこと、つまり滅私奉公。これが時代を越えても共通しているものなのだろう。滅私奉公の4文字にたどり着くためだけにこんなに長々と書いてしまった。

この、滅私奉公、ゴジラの方は特に顕著だったと思う。(ゲ謎は滅私奉公から脱して、未来と自分を救わねばならないのでここでぐずぐずしてはいられない)やや内容に触れるが、ゴジラとの最終決戦を戦うのは戦争を生き抜いた軍人たち。集められた元軍人たちは「今は家庭がある」「あの頃とは違う」と言う、それは至極真っ当で、令和の今の感覚に近い。でも、その後に「誰かが貧乏くじを引かないといけないんだ」と自己犠牲を見せる。これはゲ謎のゲゲ郎も同じことを言った。息子がこれから生きる世の中にはよくあってもらいたい、と。これ、創作物のヒーローたちは時代問わず言うのだろうけど、ゴジラは今となっては一般人の集まりな訳で圧倒的なヒーローではない。ゲゲ郎はポジションとしてヒーローなので、言うだろう。特にアニメの鬼太郎は勧善懲悪チックなところも大きいから当然ではある。で、ここに「うわ!戦争の名残だ!」をがっつり感じた。ただのなんでもないひとりの人間の塵芥みたいな吹けば飛ぶような滅私奉公。

戦争を生き残ってしまった元軍人たちが、国や家族を守るために「人間」ではなく「怪獣」を倒すために立ち上がる。ああ、これはさぞかし気持ちがいいだろうな、やる気が入るだろうな、と。意味も意義も遥かにある。殺さなくてもいい。戦後の生き残った人たちが敗戦後の日本でどんな気持ちで生きてきたのかは分からないが、あんな戦争のためには死ななくて良かったけど、あの怪獣を倒して死ねるなら本望だ、と感じているんじゃないか。または、あの時死ねなかった命をここで、と思ったんじゃないか(主人公の敷島はこれ)。まさに命が軽かった。戦争は終わっているのに、死ぬ気で臨む。死ぬ気なんて戦争でしか出しちゃいけない、なんだったら本当に死ぬような死ぬ気を出していい場面はこの世のどこにも人生のどこにもあってはいけない。引きずってるんだ、戦後の人ってもしかして「戦争よりマシ、特攻よりマシ」って働いてきたのか?それは今の学生とはとんでもないギャップ生まれちゃうよ、なんて今更しみじみ感じた。

全然、別の話だけど『教団X』と言う小説にも戦争から生きて帰ってきた人たちが出てくる。生き延びて、天啓を受けた人たち。読んだのは最近で、とても面白かったけど、当時の書店の異常な湧き方ほどは湧けなかったのは時を逸したからだろうか。面白かったし、すごかった。なかなかの分量だけど、おすすめです。

ゴジラとの最終決戦は、目標として「誰も死なせない」を掲げる。これはまさに戦後だから言えた言葉で、厳密には令和に描かれた戦後だから言えた言葉の最たるものだと思う。ゲ謎のラストで水木は、令和的な感覚での健全な社会の希望としての鬼太郎を救う。ゲ謎は雑なネタバレをするとすごく死ぬので、ゴジラとそこの一点では全く重ならないのだが……。まあ、日本の夜明けに必要のない人間だったということで、前時代的要素の排除。時代と時代のコネクトを担当したのが、ゲ謎は水木で、ゴジラは生き残った人間すべてだっただけ。

結論なんだっけ、というほどだらだらと閑話に次ぐ閑話をしてきた。結論は冒頭に書いたが、「令和に描く戦後って感じするよね!」。なんにせよ、きっと、ここは時代の岐路なんだろう。

2023.11.23(公開するの忘れてた)

@mican
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