さいきん大学生のお客様や元いたサロンの後輩から就職、転職の相談を受けることがたまたま重なっていた。転職といえば僕自身、3回経験していて(新卒入社の老舗サロン→小規模サロン→そのサロンでフリーランス契約→現シェアサロン)、自分に合った働き方、自己実現、そして心地良い環境については否が応でも沢山たくさん考えさせられてきたような気がする。
就職にしても転職にしても、その選択は"やりがい、好き、夢を追い求める"のか、それとも"環境の心地良さを優先させる"のか、という天秤がどちらに傾くのか、その絶妙かつ微妙な揺れ動きに自分の心がどのように共振していくのかを誰もが見定める選択となる。もちろんどちらも大切なのは大前提だけれど、優先順位をつけなければいけないなんて世知辛い世の中だ。就職(転職)は結婚(再婚)みたいなものだから、生涯の伴侶を見つけるつもりで挑め!なんて専門学校の就職担当の先生に言われたのがふと頭をよぎる。
けれど、いまはそんな時代か?とも思う。生涯雇用も一社に勤め上げる時代も今は昔、世代が下るにつれてどんどんドライに、個人主義的(たぶん日本でいわれる"個人"主義は西洋でいう"individual"とは少し違うと思うけれど)になっていて、キャリアアップ的な意味でも、切り捨て的な意味でも、戦略的撤退的な意味でも転職が当たり前になってきている肌感は実際にある。社会には自分自身よりも大切なものはどこにもなくて、社会には自分を犠牲にしてまで達成するべき課題なんてどこにもない。常に僕たちは自分自身をいちばん大切にして、その上で社会に参画して自己実現をしていけばいいと個人的には思っている。だからこそ、そんなに深刻に考えすぎないで、いま自分にできる限りの自分なりに正しい選択を信じて進めばいいと、大切なのはその選択を常にブラッシュアップし続けることだと、相談をうける度に思ったりもする。
そんなことを考えつつ、少し前に障がい者のルッキズムについての論考を読んでいたときに考えさせられてしまったことがある。
その論考の主旨は、障がい者に見えない障がい者(たとえば発達障がいの方)や、シグナルで認知される情報で勘違いされてしまう障がい者(たとえば聴導犬をつれている方→盲導犬と勘違いされて「目が見えているのに」とサポートを拒否される)など、広義でのルッキズムを社会が乗り越えていくためには構成員ひとりひとりのリテラシー(教養)がなにより大切である、みたいな内容だった。そりゃそうでしょうねえ、と思いつつ、それってそもそも実現可能か?とも思ってしまう悲観的な自分もいた。
そういうルッキズムや差別、区別問題は理想論的にはリテラシーで乗り越えられはするものの、そもそも人間にインプットされている深い認知特性にその問題の根っこがあるのだと思う。集団からはみ出るものを排除する、見た目が異質なものを忌避するのは母集団の治安、安全を維持するためには必要なプロセスでもあるし、他人を疑うのは自分の利益(生命の保持)を保証するためだ。そうだとすれば、僕たちに必要なのはリテラシーを高めることと同時に(それを否定しているわけではもちろんない)、その認知特性をうまく緩和させられる環境をデザインすることだと思う。いじめを起こさない努力をするのはもちろん大切な倫理観だけれど、そもそもいじめが起きない環境をデザインするのが僕たちにとっては大切なのかもしれない。その一端が、さいきんよく耳にする「チームの心理的安全性」というやつなのだろうし、経営論や帝王学はその問いに答えを出す一助になるのかもしれない。とても広い意味でいう都市計画というものもそういうインフラが心地いい市民の環境をデザインしていくということなのかもしれない。
勢い余っていろいろと書いてしまったけれど、言いたいことは要するに『環境ってめちゃめちゃ大事だと思う』ということ。僕たちはそんなに強くもないし、頭もよくない。心地よく生きていくためには心地よく生きていける環境が必要で、それを選びとるのは他でもない自分自身。どんな場所にいても自分次第?そんなのはうそだ。環境に人は創られて、環境で人は変わる。それを選びとるのが難しい、というのは百も承知だけれども。人生ハードモードだよね。デウス・エクス・マキナはいつぞや。
とにもかくにも、相談してくれた人たちのこれからがどうか心地よく幸せでありますように、と春の月夜に祈る。