「私たちの心の中身は誰にも奪えない そんなに守らないでも平気」
月9ドラマの為に書き下ろしたという宇多田ヒカルの新曲「何色でもない花」の歌詞のワンフレーズ。遅ればせながら今日の昼過ぎにドーナツをほおばりながら先週YouTubeに公開されていたMVを観て、このあまりにも自己愛に満たされた充足的な世界観に、思わず食べかけのドーナツをお皿に置いてため息をついた。
働き方と社会の仕組みの問題なのか、日本人の国民性の問題なのか、それともホモサピエンスが背負っている逃れられない性の問題なのか、メンタルヘルスの重要性が叫ばれて久しい昨今。自立、独立した個人(individual)という概念はぼくたちが自分自身の、そして大切な他者の心を守りながら社会で生きていくためには大切な境界線となる。自と他の境界線を侵さず、無理に乗り越えず眺めながら、時にはゆっくり溶かしていく。そんな営みのトライアンドエラーを繰り返していくのがとても広い意味での人間関係というものなのかもしれない。
「私の感情は私だけのもので、それを否定する権利はだれにもない」そんな台詞が大好きな漫画にあった。ずっと抱えてきた悩みを打ち明けたとき、心が負けてしまいそうな弱音をついこぼしたとき、「そんなことないよ」「そう思うのは間違ってるよ」ときにはそんな"やさしい"言葉に他者との埋められない心の距離を感じてしまうことがある。もしかしたらそのときにほしい言葉はただ一言、静謐で包み込むような温かい肯定の一言だったのかもしれない。もちろんそのやさしさを否定したいわけではない。励ましや道案内が必要な場面はたしかにあると思う。たぶん"やさしい否定"も"しずかな肯定"もどちらも、1人では生きていけないようにデザインされている僕たちにとっては他者からしか得られない必要な栄養素なんだと思う。かまえているキャッチャーのサイン通りの球種の球を投げられるのか、ということなのかもしれない。
自立と他立のアンバランスさを実感するたびに弱くて拙いホモサピエンスへの落胆、諦観と同時に愛おしさを感じてもいたからこそ、そんなアンビバレンスな世界観に宇多田ヒカルの言葉はとても耳心地がよかった。
「私たちの心の中身は誰にも奪えない」
「そんなに守らないでも平気」
なんて、円環していて、強く、美しい在り方なんだろうと思った。否定をおそれることも、肯定を求めることもない。そんな身軽な彼女の歌詞からあふれる人生観に憧れてしまう。
自由、自立、そして自律。自己充足と自己愛と、そしてその円環。いまのぼくには到底書けそうもないこの2行目を聴くために何度もなんども「何色でもない花」を再生する。