さいきん建築がおもしろいなあなんて思って、建築史やら偉大な建築家の系譜やらを勉強してみている。すると有名な建築家たちは自分のセンスやエゴを詰め込みまくった住宅建築を設計するとき、その建築に合わせて家具をオーダーメイドで設計したりもするらしいことを知った。名品と呼ばれるインテリアの多くは建築家が設計したものが意外にも多い。すてきだなあ、自分好みの家を建てて自分好みの家具を作る、建築家はそんなことまでできるのか。
そうして建築からインテリアデザインにも興味の幅が広がり色々と見てみていると「有機的なデザイン」というキーワードをみつける。建築の意匠を紐解いていくときにもよく使われる"有機的"という言葉。簡単に言うと"人(いきもの)との関わりをデザインの前提としているか"という意味で使われる言葉だ。わかりにくいなあと思う人は"椅子っぽい椅子"と"椅子っぽくない椅子"を想像してみるといいかもしれない。いわゆる4本足で背もたれがついているあのインテリアと、デザインがおしゃれすぎてぱっと見はよくわからないけれどどうやら座っていいらしいあのインテリア。どっちも椅子だけれど前者は有機的(機能性重視)で後者は無機的(デザイン重視)というわけだ。建築史も同様に有機的(他律的)な建築と無機的(自律的)な建築を行ったり来たりしてきた潮流がある。両陣営がお互いを否定し合って、時代に後押しされながら歴史を形成していくシーソーゲーム。その構造自体は哲学も芸術もどれも同じみたいだ。
どうやら(とても広い意味で)ものづくりをする人たちは無機的か/有機的か、自律/他律と言い換えてもいいけれど、そんなことを考えていかなければいけないらしい。それは職人(プロフェッショナル)と芸術家(アーティスト)との間に引かれているボーダーラインとなる。その線を越えるのか、越えないのか。越えることに意味はあるのか、ないのか。自分の立ち位置はどこで、社会のニーズはどこにあるのか。建築家も哲学者も芸術家も、僕たち美容師でさえも、ものづくりをしていく以上はそんな問いに向き合わなくてはいけない。
「機能的なものこそが美である」と言った建築家がいたらしいけれど、機能的(有機的)なデザインを究極まで突き詰めていくと画一化/均質化していく。機能的なものはテーブルも椅子もシャープペンもハサミも、多少の誤差こそあれどほとんど全部同じような形、デザインになる。
一方で自律的(無機的)なデザインを究極まで突き詰めていくと独りよがりのエゴの押し付けにしかならない。それは自己表現ではあっても社会的ニーズを満たしたり問題解決をするような類いの活動ではない。芸術家にとっては自律に振り切ることで創り出せる作品があるけれど(ポロックのアートなんてまさに)、それ以外のものづくりに関わる人たちは多少なりとも機能的/有機的/他律的でなければ仕事として成立しないだろう。
たぶんこのシーソーゲームには勝者も敗者もないのだと思う。あるのはただTPO(time,place,occasion)とのマッチングで、それよりも大切なのは自分の立ち位置を明確に自覚することなんだと思う。ただ、まあ意外と難しい話でもない。個人の美学的な意味での価値観の問題と、あとは直感的な好みの問題なのかも。
さいきんはそんな風に、有機的/無機的とか、他律的/自律的とかいった観点から建築や哲学、芸術などの(とても広い意味での)ものづくりを眺めている。20世紀を代表する思想、構造主義の哲学者たちが提示してみせたように『人類の営みはすべてが構造(構築的)である』ということなのかもしれない。
そうやって考えてみると、例えば人類とは全く違う知的生命体である宇宙人がたまたま地球に不時着して、この星の生命体の覇者である人類の営みを観察したらとても滑稽に思えるのだろう。なんだ、この星の住人は手を替え品を替え、結局は同じゲームをしているんじゃないか。2チームに分かれて両陣営、正反対の構造同士が否定し合って戦争し合って、ときには妥協して溶け合いながら、また分かれてそれを永遠と繰り返していく。やだやだ、なんて野蛮な生態なんだ、なんて言われてしまうかもしれない。
、、、だいぶ話が脱線してしまったけれど、たとえ人類がそうやってでしか前に進むエネルギーを生めないような悲しい生き物なのだとしても、僕はそんな野蛮な生態に吐き気がする反面、愛おしさも感じている。
この話はどこにも着地しそうにないのでこのへんでおわりにしようかと思う。それともこのまま続けていれば、別の星にでも不時着するのだろうか。
それはそれで、いいのかもしれない。