ゆく河の流れは絶えずして

kei
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昨日、仕事終わりに渋谷の映画館で『落下の解剖学』という映画を観た。自宅の窓から転落死した夫とその死に関与したと疑われる妻、そして第一発見者である視覚障害がある子供。裁判の進捗とともに少しずつ明らかになっていく生前の夫婦の関係性の歪み、果たして夫の死因は事故か、殺人か、それとも自殺なのか。そんな話。

鑑賞から一晩経って、その抽象的な物語が少しずつすこしずつ消化されていって自分自身の言葉にしていけそうなので書いてみようと思いたった。直接、物語の展開には言及しないつもりだしネタバレをするつもりもないけれど、ぼんやり映画の主題と抽象的な物語の概念そのものへの自分なりの解釈を書いていきたいので、映画を観にいくつもりで事前情報や他人の解釈がノイズになる人は鑑賞後にまたここで待ち合わせ、ということにしてほしい。

ということで。

"人間関係"という言葉でひとくくりにしてしまっては狭義すぎて持て余してしまいそうなので、"人の生そのもの"というところまで言葉の意味を広げた話になるのだけれど、それは連綿と続いていく連続性のうちにしか在りえない、ということなんだろうなあなんて思った。「あのときこうすればよかった」はひとつの場面として切り取った過去の選択を振り返ったときにはどうしても考えてしまうけれど、本当にあのとき"こうする"ためには自分自身の在り方の基底にまでさかのぼらないといけない。そのひとつの選択、アクションが現象するまでには連綿とした自分の歴史があって、その瞬間その瞬間には僕たちは自分自身にとってはベスト("最善の"という意味ではなく"精一杯の"という意味で)な選択、アクションしかなしえない。これはたぶんポジティブな意味でも、ネガティブな意味でも。

平安後期に3大随筆家のひとり鴨長明は天災、人災に苛まれ荒廃していく都市を見つめながら仏教的諦観と厭世観にかられて『ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず』と書き残した。ぼくは鴨長明もその随筆「方丈記」も大好きなのだけれど、なんど読み返しても本当にこの一節は言い得て妙だなと感動してしまう。常に生々流転していく世界でぼくたちが命のサイクルを自己保存していくためには新陳代謝が必要で、そのシステム自体は肉体を保存するというよりは情報を保存するという意味なのだと思う。人間の37兆個の細胞は約7年で完全に入れ替わってリフレッシュするらしい。つまり7年前と、いまと、7年後のぼくは厳密に言えば全く違う生命体だとも言える。「テセウスの船」というパラドックスみたいな話だ。古くなった船を1パーツごとに新しい部品に入れ替えて行ったとしたら、最終的には全部入れ替わった新品テセウスの船と、入れ替えられた廃品で組み上げられた旧テセウスの船が2隻出来上がる。さて、この2隻の船はどちらが"ほんとうの"テセウスの船なのだろうか...。7年前と今と7年後のぼく、どれもほんとうのぼくだとも言えるし、振り返ったときにはもはやあのときのぼくは今のぼくとは別人だとも言える。ゆく河の流れは絶えない。しかももとの水ではない。それでも、河の流れは絶えないのだ。

仏教哲学では生々流転していく世界の流れを認識しつつも「いまここに在る」ことに集中することが解脱への必要なプロセスであると説いている。これはある意味では連綿と続いてきた、そしてこれからも連綿と続いていくであろう連続性を乗り越えて(あるいは切り捨てて)「いまここ」で生きていく姿勢とも捉えることができると思う。それは『しかももとの水にあらず』という概念への静かな理解と諦観だ。だけどそれと同時にぼくたちは『ゆく河の流れは絶えずして』という物質的な縛りと自分の歴史から逃れることはできない。ぼくはぼくで在ることしかできなくて、ぼくはぼくに出来ることしか出来ない。

連続性から逃れることはできない。この世界の在り方はそもそも連続的でしかないからだ。いまこうなっている帰結は、こうでしか在りえなかった結果でしかない。そうやって考えてみると人の"罪と罰"とは、その概念そのものとはどういう意味なんだろうかと映画を観て考えてしまった(ここでようやく映画の話に帰ってきた...おかえり...)。

法廷の進捗とともに、人間が構築した社会契約というシステムの法律問題としての"罪と罰"が問われていく一方で、その事件の当事者たち(死んだ夫、容疑をかけられた妻、証人である息子)はシステムとしての"罪と罰"ではなく、もっと肌と肌が触れ合うような、リアルで身体的な、実存的な"罪と罰"に向き合っていく。そしてたぶん、それは『ゆく河の流れは絶えずして』という連続性に内包されている"罪と罰"だから、そうでしか在りえなかったのだろうし、それは始めから決まっていたのかもしれない。そんな、カルヴァン派の決定論みたいなことを考えてしまう。

そうなのだとしたら、彼ら彼女らに出来ることはあったのだろうか。ぼくたちに出来ることはあるのだろうか。現実と区別がつかないほどにリアルな物語の抽象性にからめとられて、身動きがとれなくなってしまう。身体が重くて、ただただ思考だけが巡っていく。人と人との関わりはテクニックや誠意、徳の問題ではなく、ただ予め決められた抗いようのないシンプルな相性の問題でしかないのかもしれない。

つかれたなあ、

つかれた。

そんなことを考えさせられた映画だった。考えさせられた、ではない。これからも考えさせられていくのだろう。ゆく河の流れは絶えることはない。だけど、そうやって考えていった先にある河の在り方は、もはや『もとの水にあらず』だ。そう信じて。

やっぱり今日はひたすら抽象的な、概念的な話になってしまった。たぶん読みづらかったと思う。ごめんなさい。

考えすぎもよくないな。わかっている。よし、気を取り直してクレヨンしんちゃんの映画でも観よう。

@michelangelooo
『pillow of Socrates / ソクラテスの枕』プラトニックな希望と静かな憂鬱をいったりきたりする28歳の日々の日記です