好きな作家はたくさんいるけれど、一番好きな作家は?と聞かれたらまず間違いなくアガサ・クリスティと答える。わたしにとってクリスティは特別な存在だ。そうは言っても、クリスティの本を読みはじめたきっかけは覚えていない。一番最初に読んだミステリは、世の大部分の方が同じだろうと思うが、シャーロック・ホームズである。ジュニア向けの本で、『バスカヴィル家の犬』のタイトルが『夜光怪獣』になっていたことを強烈に覚えている。ホームズを読んで、子供ながらに面白いと感じ、そこからルパンやクリスティを読むようになったのではないかと思う。わたしの両親も本が好きで、昔から家の中にたくさんの本が山積みになっていたが、その中にクリスティがあったのかもしれない。ただ、クリスティの本はほとんどハヤカワミステリ文庫で持っていたため、クリスティにハマって読み漁ったのは少なくとも高校生ぐらいにはなっていたのではないか。他にもエラリイ・クイーンやディクスン・カーも読んでみたが、全部の本を集めるほどに夢中になったのはクリスティだった。なぜそんなに好きになったのか?自分でもハッキリとした理由は言えないのだが、謎が解けた瞬間の驚き、衝撃ともいえるほどのそれがたまらなくわたしを惹きつけたのだと思う。クリスティは、とにかく読者が彼女の本を読んでどのように考え、誰が怪しいと推理するか理解した上で、それを裏切り思いもかけない方向から答えをさらけ出して見せるのが得意だ。怪しい部分を、そうと分からないよう煙に巻いて上手く文章に落としこんでいる。わたしが読んで特に驚いた本は、『アクロイド殺し』『死との約束』『葬儀を終えて』『五匹の子豚』等、他にも多々あるがその中からどの本を紹介しようか?と考えたとき、ネタバレの危険を回避しつつ面白さを説明するのは難しいのでは、と思ったので今回はあえてミステリ以外の本を選んだ。
『春にして君を離れ』は、クリスティがメアリ・ウェストマコットという別名義で発表した作品だ。本屋で初めてこの本を目にした時は、なぜ名義が違うのか?ミステリじゃないのか?気になりつつも手に取り、読んでみた。その時は、何も事件が起きないことに少しガッカリしたような記憶がある。多分まだ若かったわたしにはあまりピンとこない内容だったのだろう。
この本は、ジョーン・スカダモアという女性が己の内面と向き合う話だ。彼女の夫と子供達。理想の家庭。ジョーンの満ち足りた生活。何一つ曇りの無いそれが、偶然出会った昔の友人との会話によって揺らぎが生じる……。
ジョーンが作り出した理想の家庭は、彼女が夫と子供達を抑圧し、自分の思う通りに歪ませた結果得たものだった。ジョーンは現実を見ず、他者の感情にも目を背ける。彼女の中に存在する価値観と相違する物は全て無い物にされるのだ。今まで見て見ないふりをしてきた、夫や子供達の自分を見る目、本心に気づいた時、己の犯した罪に向き合ったジョーンが取る行動は……。
殺人事件は起きないし、探偵も警察も出てこない。けれどもこの本には、身震いするような恐ろしさがある。そして、ひたすらに哀しい。クリスティのミステリを読んだことがある方も無い方も、少しでも気になったなら是非読んで欲しい。心の中に重しのような何かを残す作品だと思う。