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ren_inbloom
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※今回および3.11の地震についての記述があるため注意。

2024年1月1日。16時ごろに妙な揺れを感じた。強くはないが、船に乗っているときのような揺れ。嫌なパターンだ。「津波が来そうな揺れだな」と思ってSNSを開いたら、震度7という文字。理解が追い付かずしばらく考えてからニュースを見た。

今回の地震は「令和6年能登半島地震」と名付けられたようだ。ニュースを見ながらいくつかツイートをしていたが、ぼろぼろ泣けることに驚く。自分自身は数日停電したり食料や灯油が手に入らなかったり、震災対応に追われたりしていただけのつもりだったが、トラウマになっていたらしい。

あのときは停電していたので、ニュースは見られなかった。断続的にラジオを聞いて、ところどころ情報を把握した程度。被害の状況も範囲もわからない。あの日、発災は15時過ぎだった。飲み会の予定があって車を置いてきていたため、家に帰る手段がない。職場の人が途中まで送ってくれて、その車中で津波のニュースを見ながら、母がいるはずの親戚の家に行った。すべての信号が止まっていて、そこいらの店の人が自主的に誘導をしたり、ドライバー同士が譲り合ってどうにかしたりしていた。実家まで送ってもらって車を回収。家の近くにある商店に行ってみたものの、懐中電灯もろうそくも食料も多少はある。おそらく足りないものはないと考えてたばこを大量に買った。その後ずっと停電で店も閉まっていて自動販売機も使えない状態だったので、家族に褒められたし自分でもいい買い物だったと思っている。

そのころ飼っていた犬は、まだ幼かった。ひとりで留守番していた犬は、ハウスの隅で震えて声も出せない状態で、しばらくは鳴かなかった。もう日が傾きかけていたため、とりあえず水が出るかを確認。そのまえに起きた震度5くらいの影響で食器が大量に壊れていたため、食器棚類にはストッパーをかけていた。しかしストッパーを開いたらなだれ落ちてくるような状態である。覚悟を決めて扉を開いた。新婚当時に買った、ピューターのワイングラスが変形していたことが忘れられない。

あのとき一番役に立ったのが、反射板式ストーブだった。家全体を温めるには至らなかったが、一部屋くらいなら暖められて煮炊きもできる。寒い地方なら持っておくといいと思う。人によってどう感じたかは違うだろうが、私は停電が解消するまで生きた心地がしなかった。恐怖を紛らわせるために、ガラケーを使ってわかる範囲の情報をブログにまとめていた記憶がある。正確な情報は古いデータを見なければ思い出せないが、金曜日に地震があって、電気が戻ったのは日曜日の朝方だったような気がする。そのまま風呂を沸かして入って、そこからニュースを追って、大変なことになっていると知った。そのあとは食糧不足やガソリン・灯油不足、そして激務が待っていた。それでも私が済んでいる地域の被害など、たいしたことではなかった。一週間経たないうちに、いとこが済んでいる宮古市の避難所に行ったが、その道中で見た光景が忘れられない。見慣れた松林は津波で流され、潰れて塊になった車があちこちに転がっている。想像もしないような光景だった。

そこから数年後、震災に関するインタビューに携わった。人数は思い出せないが、文字起こしの校正だった。ある程度年数が経っているものの、まだ生々しい。校正だけのはずだったが結局は全件自分で聞き直して文字に起こした。目の前で人が亡くなった、手をつないでいた相手が助からなかった……そんな話も少なくない。ひとりの死について複数人が語っていることもあった。そうすると、さまざまな角度が補正されていき、超リアルに想像できる立体的な話になってしまう。淡々と作業するようにしていたが、何度か涙を抑えきれなくなった。

その仕事は、労働時間的にも内容的にも、今までで一番過酷だったように感じる。しかし、私のもとにめぐってきたのは縁だとも思う。震災後、多少のボランティアはしたが、なんだか何もできていないと感じてつらかった。その仕事に携わったおかげで、そのつらさを抜け出せたのかもしれない。そのころは、まだ書く仕事をしていなかった。それでも、いつかどこかで、この経験を伝えなくてはと思った。自分だけでなく、親戚や、そのほか大勢の人たちの。「ディザスターシンドロームだろうな」と思いつつも、私にできることは今の段階ではないので、ブログ記事をひとつ書いた。

震災直後はNHKを見ていたが、アナウンサーに批判の声があるらしい。確かに鬼気迫る声には恐怖を感じたが、それが正解だと思っている。強く言わなければ動かない人もいる。その学びが生かされていると感じた。あのくらい言っても逃げない人もいるだろう。テロップもわかりやすくひらがなになっていた。私を含め人間はおろかで失敗も多いが、こうやってきちんと生かしてくれる人もいることを尊いと思った。夫から聞いたが、3.11以降津波予報の精度も上がっているそうで、日本で「津波が来ません」といったら、それはもう100パーセントらしい。逆に津波警報や注意報は、もう逃げる必要があることだともいえる。高さは5メートルまで予報が出ていたが、途中でニュースを離脱したのでどうなったかわからない。高さの予報なんて外れていいのだ。被害は小さいに越したことがない。それよりも「どうせ来ない」と思っている人を動かすことが優先だと思う。(1/2の4時の段階では)津波よりも火災が大きな被害となっているように見受けられる。津波が少なかったのなら何よりだ。火災が大きいのなら、対応としてはそちらを優先していく必要があるだろう。起きてみなければわからない。

救助要請のツイートは悩んだ結果拡散しないことにした。インプ稼ぎなのか本人以外が投稿しているケースが散見されたからだ。個人情報の拡散はリスクが大きい。火事場泥棒や、便乗した犯罪もある。これは個人がそれぞれ判断する必要があると思っている。RTで助けられた命もあるだろうから否定はしない。

令和6年能登半島地震について、まだ詳細はわからない。このあと被害状況を知ることになるだろう。余震はきっと今後も続く。このさきは経済を回して、必要な場所に支援が届くようサポートしたい。

3.11では自分は直接支援を受けた側ではない。好意的ではない人もいた。それでも、たくさんの人が助けようとしてくれていたのも知っている。インターネットが復旧して、海外からの動画にとても救われた気持ちになった。さきが見えない不安ななかで、いろんなものが希望になった。今度はこちらの番だと思う。もちろん限りはあるだろうから自分にできる範囲で。

@mikainbloom
のんびりと日記を書きます。