言語統一は目指すべき場所なのか?

miketako3
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エスペラント語とかにも代表される通り、言語が違うことによる有利不利等を無くすために言語を統一していくべきだ、という言説をたまに目にする。というか最近した。それについてお気持ちを整理しておく。

自分としては否定的な立場である。その背景は、言語を統一するということは人類補完計画的に全人類を1個人にすることに等しい、逆に言えば、人の数だけ言語があると考えていることにある。

だって自分が言う「オタク」と他の人が言う「オタク」の意味は微妙に違うじゃないか。チェックシャツをインしたメガネの人間を指す場合もあれば、人前に出ることが苦手だけど技術知識がピカイチで頼りになるやつを指す場合もある。それは状況によっても人によっても違うし、それを統一的に定義することは難しいだろう。

つまりは言語という写像には少なくとも個人と状況が変数にあるんじゃなかろうか。それを全人類で統一することは個人も状況も統一することに等しい。本当にそれが目指すべき場所なんだろうか?

そもそも統一された言語をどうやって保守していくのだろうか。人間にチップを埋め込んでAIで監視したりすればできるかもしれないが、さすがにそれが好ましく無いのはディストピア系のSFを見ていればわかる。他のやり方は自分は思いつかないが、その手法を提示しない限りは「言語統一すべき」は「5000兆円欲しい」と同レベルの主張だと感じる。

と言うわけでこんな話題でもきっとここなら許されるだろうということで書いてみた。良ければ優しくご意見を下さい。