日々辛いニュースばかりだ、とコーヒーを啜りながらぼやくような、そんなのんきなまねをできる場合ではなくなってしまった。
というか、世界ははなからのんきなまねができるほど平和ではないし、常に私の足元には誰かの体があって、生まれたそのときから、上手く機能しない二本の足で、誰かの生活を、希望を、ぐちゃぐちゃに踏みつぶしてきたんだろう。
途方もない。私の力ではどうしようもないことばかりだ。私の体は罪だと思う。存在があなたを脅かす。私の舌や表情、身振りすべてが誰かを死に追いやる。そんなことが、いとも簡単に出来てしまうんだろう。
正直、私はあまり生に執着することができなくて、毎日というか毎分もう死のうと思っている。存在は抵抗という言葉が脳裏をかすめる。少し前はこの言葉に励まされていた気がするのだが今はもう、私の世界では通用しない言語となってしまった。私の生を、体を、利用されている気がするからだ。もう都合よく利用されながら生きるのは疲れた。存在は抵抗という言葉は、私に働きかけているのではなく、私の精神の器である身体を価値のあるものとして眼差されている気がしてならない。もちろんこの言葉とこの言葉を生み出した高島鈴さんを責める気はまったくないんだがもう疲れてしまったのだ。この文章はかたくなに私を死なせまいとする私の頭に向けて書いている。私はもう解放されたい。すべてのものから。
しかしそう簡単に死ねなさそうだから私は今ここにいて、こうやって文字を書いている。私の生も体も、誰かに賛美されるようなものではなく、ただ一瞬の苦痛への恐怖と、自殺という行為の確実性のなさへの恐怖と、あとほんの少しの自傷欲求を理由に生きている。
誰かの死骸のうえで生活をするのはつらい。(死にたい理由はそれだけではないが)でも死ねない。
死ねない私はなにをするのが最善なのだろうと考える。罪の重さで体が痛む。それでも考えないといけないと思う。