優しさには2種類ある。
昔からの旧友が教えてくれた。
何かをしてあげる優しさと、我慢する優しさ。
何かをしてあげる優しさは、相手にも伝わりやすい。だから相手が喜んでくれているところが見えることが多いし、自分も嬉しい。そのせいでエゴイストな優しさになってしまうことがある。相手が喜ぶと過信して、自分の快感のためにやってしまう。本当に相手が喜んでいるかはわからないのに。
我慢する優しさは、相手に伝わらないことが多い。だから相手がこの優しさで喜んでいるところは見えずらい。どちらかというと、やってしまうと悲しんでしまうから我慢する。現状維持。人間は我慢するのが苦手だから、これができない人はたくさんいる。
どちらもできるようになりたい。
私も我慢するのは不得意。だけど。
ただこれを教えてもらってから、後者ができない人が多いことを知って、腑に落ちたように思える。
後者の優しさをするのは本当に難しい。できなくても仕方ないほどに。そう思えば楽になれるのかもしれない。一種の諦めでもある。
エゴイストな優しさを向けられた時にそれを素直に受け止められないことがある。この人は自分が気持ちよくなるために私に優しくしているんだろうなと思ってしまう。歪んでいるのは私なのかもしれない。
素直に受け止められる時とそうじゃない時の違いはなんなのか。
実際はあんまり嬉しくないことを、あたかもあなたのためにやってるんですよという顔でされた時だろうか。
私がやりたくてやっているのですという優しさは、なんだか素直に喜べるような気がする。
お互いの関係にもよるのでここは不透明。
最近エゴな優しさを素直に受け止められずに苦しくなってしまっていた。その優しさをエゴだと判断してしまう自分にも鬱々としていた。
どうしたら良いのか。考えた結果、私もその人にエゴな優しさを投げ返そうと思った。
その人のために何かをしてみる。もちろん私の為でもあり、その人のために。エゴを自覚した優しさである。かなり暴力的ではあるが、目には目を、歯には歯を、エゴにはエゴを。
エゴパンチ。
そう考えるとすごく振り切れた。
同居人に話したら、安心したと言われた。
怖い解決方法ではなくて、(エゴだとしても)優しさを選んでよかった。