眼鏡が嫌いだった。
正確に言うなら、目が悪くなったせいで自分の意向と関係なく眼鏡をかけなくてはならなくなったことが嫌だった。眼科の先生に「これは眼鏡ないとダメだね」と言われたあと、家に帰って大泣きした。小学2年生のことである。
眼鏡を作ってからも、人前で眼鏡をかけた顔をさらすのが恥ずかしかった。年齢が上がるにつれ、目はさらに悪くなり、とうとう四六時中眼鏡が必要になったが、その時にはさすがに自分も周りも慣れていたように思う。けれど、「どうして私は目が悪いんだろう」という、どこに向けるのでもない恨みが、心のかたすみにずっとふつふつしていた。
そんなことを、今日、久しぶりに思い出した。というのも、今朝ふいに「目が悪いのは私に与えられた祝福かもしれない」と思ったのだ。
私は細かいことが気になるたちで、おまけに想像力も豊かな方だ。これはつまり、視界に入るものすべてに対して、無意識に細々とした情報を拾ってしまい疲れやすい、ということを意味する。
しかし、眼鏡を外せば、私の世界は一気にぼやけ、なんとなく形が分かる、というシンプルなものになる。そしてこのピンぼけした情報量の少ない世界は、私に一種の安らぎを与えてくれるのだ。まるで、私の目を、透明な手がやさしく覆っているかのように。
私は今日はじめて、その手の存在に気づいた。きっと、今どうしようもなく理不尽に感じていることも、透明な手の存在に気づいていないだけなのかもしれない。そう思うと、すこしだけ世界がぼんやりと丸みを帯びていく心地がする。
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