鉛筆が落ちた。
カラン、と音がする。私は、鉛筆の音が好きだと気づいた。紙の上を走る音も、机に置かれるときの、どこかりんとした、こざっぱりとした音も良い。
そんなことを、ふと思った。鉛筆の音なんて、学校や受験を想像させるものでしかなかったけれど、本当はこんなにすてきなものなのだ。気づいてよかった。
音といえば、今日はラヴェルのLa ValseとJeux d'eauを聴いた。それぞれ、「ワルツ」「噴水」という意味であるが、後者の邦訳は「水の戯れ」である。鮮明に情景が浮かんでくるのは、作曲者の腕なのか演奏者の技なのか、そのどちらもなのかもしれない。私は「水の戯れ」が、その訳のセンスもあいまって特に好きだ。
音楽と文章は似ている。どちらも、「そこにある」ように語ることができ、その語り方は夜空の星々のように無限だ。(この「夜空」とは、もちろん、人が明かりを持たない時代のものである。)
無限というものを前にするとき、人は恐怖を覚えると思う。たくさんあるということは、何もないのと同じだから。だから、その無限に手をのばし、「ある」のだと証明して見せる人々、音楽家、文筆家、画家、研究者……は、私がもっとも尊敬するひとたちだ。
自分も文章を書くはしくれとして、その末席にいられたら……というのはおこがましいかもしれないけれど、文章を書くことにより、自分というものを広く、大きく、深く、なにより「そこにある」ものとしていきたいと思う。一生をかけて、というと重すぎるので、それこそ鉛筆くらいの手軽さと素朴さをもち、生活に根ざして、ぼちぼちやっていきたいと思う。
BGM:水の戯れ(角野隼人)