人間界if鍋平進捗

minami373
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公開:2024/10/31

 一瞬、誰だか分からなかった。

 振り返る動きに合わせ、ゆるく束ねられた赤い髪が肩から滑り落ちる。

「平尾さん!」

 頭に浮かんだ名前が、となりから発せられた。

「入間様」

 そのひとはやわらかな、笑みを浮かべた。それだけで、硬質な印象が一変する。

「こんにちは、奇遇ですね。お仕事ですか?」

「はい、今インタビューをさせていただいたところで」

 そこまで言って、佐藤はこちらを振り向いた。 

「あ、すみません、鍋島さん。こちらは平尾さん、去場社長の秘書です」

 そう、にこやかに紹介をする。余計なことを。思ったが、無視するわけにもいかない。

「はじめ……」

「ええ、知ってます」

 こちらの挨拶を遮るように、彼女は言った。

「久しぶりですね、啓護くん」

「お知り合いなんですか?」

「ええ、同じ学校だったもので」

「そうなんですか!」

 佐藤は好奇心に目を輝かせた。

 余計なことを、と睨めつけると、ぱちりと正面から視線が合った。が、平尾はそれをするりと交わし、佐藤へと笑みを向けた。

「去場様がさみしがっていましたよ、週末にでも顔を出してください」

 言葉遣いはともかく、年の離れた姉のような話し方に、佐藤も幼く見える顔で頷いた。

「すみません、お邪魔して。それでは失礼します」

「いえ……」

 目を伏せ、一歩下がる。

 ゆっくりと彼女は一歩踏み出した。距離が最も近づき、離れるその一瞬、

「また連絡しますから。番号、変わってませんね?」

 するりと肌を撫でるような囁きを残し、彼女は歩いていった。

 今すぐ、拒否するべきだ。沈黙は肯定。なのに、舌も足も動かない。

 真っ直ぐに歩く後ろ姿を、黙って見送るしかなかった。

 においのないひとだった。

 姿勢が良く、短く刈られた髪は女らしさを損なうどころか、繊細な造作を強調し、ふしぎな魅力を醸し出していた。同じ制服の群れの中でも、はっと目を引く存在。

 番長だ━━━━と誰かが言った。古めかしく厳しい名称は、うつくしく媚びない女生徒へのやっかみかと思ったが、実態を知れば、それ以上もそれ以下もない、まさにぴったりな呼び名だった。

 まさか、また会うことになるとは。

「最ッ悪だ……」

 顔を覆い、吐き捨てた。

 振り回された過去が瞼の裏を巡りだし、うっそりと目を開ける。

 いっそ壊してしまおうか。

 手の中のスマホに力を込めた瞬間、厭うように震えだした。

 頭を占めたのは、諦めか。

 息を吐き、指を滑らせる。

「……啓護くん?」

 電話越しの声は、鼓膜に甘く滲んだ。

 こうして電話で話すのは、はじめてだろうか。いや、一度や二度はあったはずだ。昔はいつも一緒にいた。わざわざ連絡しなくてもいいくらい、いつも隣に。

「聞こえてますか?」

「聞こえてますよ、何の用ですか」

「用がないとかけてはいけませんか?」

「用がないならかけてこないでください」

 不機嫌な返答に、軽やかな笑い声が返ってきた。

「残念ながら、用はあります。今から飲みに行くので、付き合ってください。場所は……」

「は? あんた、なにを言って……」

「時間はまあ適当に、準備でき次第でいいですよ」

 それじゃあ、と通話はそこで途絶えた。

 暗くなる画面を睨めつけるが、なにか答えるはずもなく。ただ、耳の奥に彼女の声が溶け切らず、残っていた。

 

 呼びつけられた店で、彼女はひとり座っていた。

 さびしげな風情も、待ち人を待つ落ち着かない気配もなく、ゆったりと毛づくろいでもするように。

 こちらに気づくと、先輩は小さく手を振った。

「思ったより早かったですね」

 微笑みながら、メニューが差し出される。

 ワインと煮込みを選び、当然のように、ふたり分け合った。

「恋人はいますか?」

「言う必要がありますか?」

「一応、マナーとして」

「……いたら来ませんよ」

「それはよかった」

「あんたはいるんですか?」

「気になりますか?」

「マナーとして聞いてるんです」

「いませんね。誰か紹介してくださいよ」

 にこりともせず、彼女は言った。薄っすらと血色の良くなった頬を眺め、

「……どんな男がタイプですか?」

 できるだけ、淡々と返す。

「後々あれは嫌だ、これは駄目だと言われたくないので。それと、楽団員は勘弁してくださいよ。揉めたら迷惑だ」

 速る心臓につられ、つい口早になってしまう。アルコールの回りまで早くなるようだ。

 焦りが、手のひらに汗として、浮かぶ。

 ふうん、と平らな声が返った。ちり、と首裏に痛みが走る。怯みことなく見返せば、先輩は目を細めて笑っていた。

「じゃあ、君にします。君がいい」

「は?」

 凪いだ水面のような瞳に、呆けた顔の自分が映っている。

「私より背が高くて、余計な詮索はしなくて、適度に忙しく、気心もしれている。私の理想にぴったりです」

 物件の条件を上げるかのように、指折り数える。自分勝手もいいところだ。

「どちらも仕事が優先。面倒なことは言いませんよ」

「今、とても、面倒なことになってるんですが……」

「照れずともいいのに」

「照れとらんわ!」

「し……声が大きいですよ?」

 人差し指がくちびるにそっと添えられた。噛みついてやろうか。思ったが、それすらも楽しそうに眺める猫のような目に、奥歯を噛み締めるに留まった。先輩は満足そうに目を細め、指を離した。ゆれる尻尾が見えるようだ。

 逃げるように会計を済ませ、店を出た。肩が触れ合い、夜は冷えますね、と先輩は小さく呟いた。

「一緒に寝ましょうか、昔みたいに」

「からかわないでくださいよ」

「からかってませんよ」

 やわらかく、先輩は笑った。

「かわいがってるんです」

 同じでは?

 思ったが、口にはしなかった。

「それに、君といるのがいちばん楽しかった」

「だから、からかわないでください」

 胸の中で騒ぐものを抑えるため、静かに答える。

 重なる肩のぬくもり。歩みは迷いのを乗せて遅くなる。見下ろす先の、伏せられたまつげが、微笑んでいるように見えた。触れたい、と思った。

 ふ、と先輩が足を止めた。すみません、と一歩、二歩、離れ、鞄からスマホを取り出す。

 去場、と名前が聞こえた。彼女の上司であり養い親。伸ばしかけた腕が、だらりと落ちた。

「すみません、今日は帰ります」

 通話が終わると同時に彼女は言った。

 とってつけたように、また今度、と聞こえたが返事はしなかった。振り返ることなく、遠ざかる背中をただ見つめる。

 予想はしていた。

 このひとにとって、家族がいちばん、あとは全部それ以外だからだ。

 昔も、今も、変わらず。

■■■

 一番、最後まで残る記憶は、においだと言う。

 夜中の学校のプールに忍び込もうなど、なぜそうなったのか、思い出せない。きっと、理由はなかったのだろう。泳ぎたかった。それだけに違いない。

 フェンスを乗り越え、服のまま、夜のプールへと飛び込んだ。

 生ぬるい夏の夜。月明かり。塩素のにおい。

 そのどれもが鮮明だ。

 濡れた体を夜風が冷やし、自然、体を寄せ合った。肩が触れたのが先か、指を繋いだのが先か。

 キスしたことがあるか、との問いに、なんと答えたのだったか。

 覚えているのは、じわりと舌に染みたプールの水の味。

 触れたくちびるは儚さを覚えるくらいにやわらかくて。そっと目を開け、固く閉ざされ震えるまぶたと、呼吸に合わせて上下する胸元を盗み見た。

 相手の全てが欲しくて、手に入れたくて、がむしゃらに手を伸ばせた頃。

 なにも、怖くなかった。

 そんな折、数年の留学を告げた。もともと決めていたことだった。

「そう……じゃあ、お別れですね」

 なんの迷いもなく、淡々と彼女は言った。

 揺らぐことのない凪いだ瞳に、続ける言葉を見失い、ただ突きつけられた終わりに、呆然と立ち尽くした。

「ああ、そうだ、餞別に何がほしいですか?」

「……あんたが、いい」

「私?」

 珍しく、隙の多い顔をして、先輩は繰り返した。

 滑らかな頬を、夕日が彩る。

 伸ばした指が頬に触れると、ゆっくりと睫毛が上下した。戦慄くくちびるが言葉を発するより先に、強く重ねた。

 埃っぽい空き教室。硬い床に制服の上着を敷いて、ぎこちなく繋がった。痛みを堪えるような吐息が首筋を撫でる。

 別れ。終わり。おしまい。これで、終わり。

 頭が、煮えてるのか、冷え切っているのか、わからない。けれど、体はうそみたいに高ぶっていく。

 終わって、汗が引き、肌が冷える。制服のボタンを留め直せば、すべて、元通りに見えた。

「それじゃあ……」

 息を吐くように呟くと、先輩は振り返ることなく部屋を出ていった。いつも通りの、迷いない足取りで。

 夕焼けはゆっくりと色を失い。時間だけが変わらず過ぎていく。 

 ただ、あのひとの何者にもなれなかったことを、知った日。

 あの日から、何ひとつ変わらずにいる。

 日付と場所の短いメール。

 ひっくり返そうが、あぶろうが、目を凝らそうが、他に文字が浮かび上がることもない。待てど暮せど、続きのメールが届くわけでもない。

 考える時間もなかった。問うのも億劫だ。言われた通りの時間に、言われた通りの店に向かえば、彼女はいた。

「これ、どういうことですか」

 メールを見せれば、ああ、と頷き、

「だって、会いましょう、いつにしますか、どこにしますかってやりとり、面倒じゃないですか」

 どこか自慢げに先輩は言った。合理的と言えば聞こえはいいが、ようはものぐさだ。

「俺が来なかったら、どうするんですか」

「さあ、どうしましょうか」

 ゆっくりと先輩は微笑む。昔はしなかった笑い方に、心がざわめく。

「座らないんですか?」

 空いたままの席を先輩は手のひらで示した。

 別に、いなければいないで、平気なのだ。この空席を埋める相手は、誰でもいい。彼女といて感じる気楽さや、呼吸のしやすさは、何も求められていないからだ。ありがたいはずのそれが、今は体の奥を軋ませる。

 なみなみと注がれたワインを飲み干し、ほってた体を持て余すように、夜道を歩いた。

 軽やかな足取りで先輩は先を歩く。ご機嫌な猫のようだ。他人の目を気にしない空気が、この人の周りには常にある。

 きっと、このまま足を止め、放っておいても気にもとめないのだろう。いや、気づかないのかもしれない。

 ふと、先輩が足を止めた。白白とした明かりが足元を照らす。洋菓子店のようだった。

「寄ってもいいですか?」

 ショーケースの中には、ちらほらとケーキが残っている。耳に髪をかけながら、注意深く覗き込む。そんなに甘いものが好きだっただろうか。

 ひとり分にしては多い数のケーキを彼女は選び、重い箱を受け取った。

「……だれかの誕生日ですか?」

「ええ、私の誕生日なんです」

 冗談でしょう。

 喉まで出かけた言葉が舌先でもつれ、へえ、と中途半端な音になった。いまさら、おめでとうも白々しい。何かするべきだろうか。

「嘘ですよ、食べたくなっただけです」

 表情を少しも動かさず、先輩は言った。

「知らないでしょう、私の誕生日」

 真っ直ぐに見据えられ、たじろぐ。

「ピアノのことしか、考えてませんもんね」

「そんなことは……」

 ない、と言い切れないのは、事実、このひとの誕生日を知らないから。嘘か、本当かも、分からない。

「私は知ってますよ、君の誕生日も、好きなものも、苦手なものも……いっぱい」

 薄く微笑みながら、先輩はこちらをまっすぐに見つめる。淡々とした声に責める響きはないのに、一言、一言が、痛みを伴い、体を駆け巡る。鼻の奥に、あの日の塩素のにおいが蘇る。

 言葉を探し終える前に、先輩は震えるくちびるをきゅっと噛み、ゆるく首を振った。

「お互い、飲みすぎましたね」

 そう言い、ケーキの入った箱を押し付けてきた。ぐしゃりと中で繊細なクリームが崩れる音が聞こえた気がした。

「連れ回したお詫びにあげます。食べてください」

 それじゃあ、と踵を返す。迷いなく進む背中へ、掛ける言葉など見つけられるはずがない。

 あんな顔をさせたいわけではない。

 殴られた方がマシだった。

■■■

 平日のテラス席は人もまばらだった。

 靴音を鳴らし近づくが、相手は俯いたまま顔を上げない。

 伸ばしっぱなしの髪は顔に影を落とし、忙しなく動く鉛筆は神経質な硬い音を立てていた。前屈みに丸まった背中と相まって、他者を拒絶する空気をまとっている。

 相変わらずだな。

 声もかけず、静かに向かいに座り、コーヒーを頼む。

 肩の力を抜き、空を仰いだ。目を焼くような日差しはやわらぎ、空は淡い色へと変わっていた。秋の気配混じる空気は、ほのかに甘く感じられた。

 ふ、と手が止まる。

 七郎は確認するように息を吸い、ゆっくりと長く息を吐くと、鉛筆を置いた。

「あれ、啓護くん、いつ来たの?」

 目を丸くすると、近寄りがたい空気は消え、目尻に愛嬌が滲んだ。

「冷めただろう、それ。他に注文するか?」

「いや、これでいいよ」

 言いながら、七郎は冷めた茶をすすった。飲んでいる間も視線はスケッチブックの上を踊り、時折ちいさく呟く。いま、こいつの頭の中ではいくつもの物語の破片が舞い踊っているのだろう。

「日を改めるか?」

「うーん……」

 七郎はこめかみに手を当て、うつむいた。

「いや、だめだ。今動いたら、思いついたこと全部、頭から落っこちそうだから、もう少し付き合ってよ」

 それならば、と改めて注文する。

 スケッチブックの上では、なにやらもこもことした目つきの悪いひよこのような生き物が踊っていた。

「なんだ、それは」

「なんだろうねえ、小鳥かなあ、天使かなあ」

「悪魔にしか見えんが」

「あ、それもいいね」

 紙いっぱいを謎の鳥で埋めると、七郎は得心したのか、鉛筆を手放した。

「そういえば、平尾先輩とご飯行ったんだって?」

「なぜ……それを?」

 つい、眉間に皺が寄る。

「聞いたから?」

 なぜ、そんなことを聞くのか、とでも言いたげに、七郎は首を傾げた。

「あのひとと連絡を取っているのか?」

「うん、年賀状とか。直接会ったのは、僕が個展を開く時に会ったのがさいごかな?」

 年賀状。なんとも毒気のない言葉に、肩から力が抜けた。

「なに、また喧嘩したの?」

「またもなにも……」

 こちらは卒業以来、会うどころか、最近まで連絡すら取っていなかった。年賀状を送ろうにも住所も知らない。

「早く仲直りしなよ、ふたりとも頑固なんだから」

「だから、喧嘩などしていない」

 言った瞬間、テーブルの上のスマホが震えた。抗議するようなそれに、ふたり固まり、同時に見た。

 送信者の名前に、顔を見合わせ、次いで周りを見渡した。

「いや、まさか……」

「さすがに、ね……」

 神出鬼没を形にしたようなひとだ。今、この背後に現れたとしても驚かないし、似たようなことは何度かあった。

「……見ないの?」

 恐る恐る、七郎が問いかけてきた。

「ま、待て、ゆっくりあける」

「メールにゆっくりあけるとか、あるの?」

「うるさい」

 息を吐き、メッセージを開く。

『海、行きますよ』

 海?

 想定外の一文に、思考が止まった。

 沈められるのだろうか。

 無言のまま、七郎と顔を見合わせる。似たようなことを考えているに違いない。

 ご丁寧にも、地図が添付されている。

「ここに来いってことかな」

「だろうな……」

 息を吐き、立ち上がる。

「行くの?」

「行くしかないだろう」

「今度、三人でご飯行こうって言っといて」

「生きてたらな」

 はは、と七郎は渇いた笑いを漏らし、否定することなくこちらの肩を叩いた。

「骨は拾ってあげるよ」